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元航空自衛官が語る「戦災前の日常、怖かった記憶」の生々しさ

幻冬舎ゴールドライフオンライン

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かつて、国内開発を目指したFSX(次期支援戦闘機)。現在、日米共同開発が進められている。本書は、著者の終戦の日の思い出から、航空自衛隊の技術、航空産業、そして国防への思いが綴られている。航空自衛隊所属の技術者として歩んできた著者にしか書くことができない書であると言える。現実の社会情勢も踏まえ、国防のあり方を分析し、FSXなどの知見を現役技術者、自衛官に継承する一冊。※本記事は、山田秀次郎氏の書籍『コントレイル』(幻冬舎ルネッサンス新社)より、一部抜粋・編集したものです。

昭和二十年八月五日あとさき

  昭和二十年当時 今治国民学校三年生

戦災前の日常

戦災の折に私が住んでいたところは当時の呼称で別宮吉本通りといい、五十五番札所の南光坊から線路に向かって半町程のところにありました。家の前は小川を隔てて遍路道で南光坊から次の札所(泰山寺)に向かう白装束のお遍路さんが鈴を鳴らして行き、時には門の前でお経を唱え、そういう時は祖母が升で掬った一握りのお米を胸もとの袋に入れてあげるのです。

私は昭和十一年十二月の横浜生まれですが、父が病を得て療養することになったため満四歳になったばかりの頃、二つ違いの兄と二人で両親の故郷今治の母方の祖母の家に預けられ、この家で祖母と三人で暮らしました。横浜の記憶は殆どなく、戦災前の幼い日の記憶は全部この家とともにあります。

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裏庭に大きな池がありその向こうの築山にある大ぶりの石には蛇が住んでいると言われていました。祖父はもう亡くなっていましたが、数年前までここで開業(秋山外科医院)していましたから、池の向こうには立木越しに病室(入院病棟)が見え、道路に面した隣には病院の建物がそのまま残っていました。池の周りを飛び回り、兄にくっ付いて終日付近の田圃や小川でフナやトンボを相手に遊び暮らしていたという印象だけが残っています。

昭和十八年の春に今治国民学校に入学しました。一年生は忠孝の二組で私は孝組でした。近所から十人足らずの生徒が集まって集団で登下校していたと思います。南光坊の吉本通りを隔てた向かい側に大きな銀杏の木がありました。そこは、古くは車屋の一角で人力車がたむろしていたと思いますが、当時もその名残か朝早くから車夫のような人たちがたき火をしていました。そこに勢ぞろいして、上級生が先導して登校していたように思います。

今治が戦災にあうのは、私が国民学校三年生になった八歳の時です。それまでは、叔父たちの出征とか千人針とか、また、町内の防火訓練のバケツリレーとか戦局にまつわる断片的な記憶は幾つかありますが、総じて緊迫感のようなものはなく、あとから思えばややハイカラな活気と文物豊かな中堅地方都市の落ち着きを併せ持った今治の一角で、迫りくる戦災など思いもよらぬ日常を謳歌していたのだと思います。

私の戦災に関する記憶は次の出来事から始まります。

胎児の標本

住まいと病院との境に土蔵があり、いろいろな医学的な標本も収納されていました。その中に、胎児の標本があり胎内での成長過程に応じて一か月毎位にそれぞれ筒状の厚手のガラス瓶にホルマリン浸けになっていました。土蔵はその頃我々兄弟の遊び場ともなっていたので、こうした標本にはほぼ日常的に接していた感じです。

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