公園に集う港区の母たちは、そんな呪文を心の中で唱え続ける。
そして、子どもに最高の環境を求めた結果、気づき始めるのだ。
──港区は、小学校受験では遅すぎる…、と。
これは、知られざる幼稚園受験の世界。母…いや受験に取り憑かれた“魔女”たちが織りなす、恐ろしい愛の物語である。
◆これまでのあらすじ
娘の華(1)の幼稚園受験を考え始めた葉月。ママ友に教えてもらったお受験塾に電話をして、紹介制のクラスへの入会を希望をしたのだが…。
▶前回:“条件”をクリアした人だけが、入会を許されるお受験塾。勤務医の妻が電話をかけてみたら…
▶あわせて読みたい:中学受験塾に6年間で900万も支払った。それでも“全落ち”したとき、親子がとった行動は…
今日は、お教室を紹介してくれたお礼に菓子折りを持って、マリエさん宅に来ていた。
「それでね、敦子さん、マリエさん。お教室をご紹介いただいたお礼なんだけど…」
私は、準備してきた紙袋をそれぞれ2人に渡す。
「これ、ささやかな気持ち。私、お受験のルールなんて何にも分からないから、これからもどうぞよろしくお願いします」
紙袋の中身は、『ツッカベッカライ・カヤヌマ』のテーベッカライA缶だ。
先週の金曜日、わざわざ予約をして用意してきたものだった。
「わぁ、ツッカベッカライのクッキー大好き!ありがとう」
子どもみたいに喜びながら、マリエさんが早速包装を開けていく。その横で、敦子さんが私に向かって尋ねた。
「今日、このあとお教室の見学に行くのよね?」
「そうなの。だから、せっかくお家に呼んでもらったのに、あと1時間も居られなくてごめんね。見学だけじゃなくて、入会も済ませてくるつもり」
マリエさんの住まいである南麻布の低層マンションからは、11月の有栖川公園の紅葉が一望できる。私は思わず、色づく木々の美しさに見惚れた。
ほうが会に入会希望の電話をしてからひと月。
結局、今年の試験の結果が出そろう11月中旬まで待つことになったけれど、お受験スーツや華のフォーマルワンピースなども満を持して準備することができた。結果としてはよかったのだろう。
「ねえ、今みんなで食べようよ」
マリエさんは蓋を開け、早速クッキーに手を伸ばす。しかし、敦子さんはなぜか、心配そうな面持ちで私を見つめている。
「お気遣いいただいて本当にありがとうね。そういえば、お教室の先生への“ダイ”も、このクッキー缶?もう少し大きいサイズ?」
「え…?“ダイ”ってなに?」
きょとんとする私に、マリエさんが目を見開く。
「ダイよ、ダイ。オボンのこと。やだ、用意してない?どうしよう、開けちゃった!
でも、これじゃそもそも小さいよね?」
まるで、異教徒の…魔女の呪文だ。2人が一体何のことを話しているのか分からず、何かただならぬ恐ろしさと緊張だけが伝わってくる。
ソワソワする私の前で、敦子さんがガラスのテーブルを指でなぞった。
「台」。
「お盆」。
指先が、私にそう伝える。そして、敦子さんは更なる衝撃を私にもたらすのだった。
「あのね、紹介制だったり、個人の先生が運営されているお教室では、色々なタイミングで“気持ち”をお包みすることが多いの。
でも、直接“気持ち”だけをお渡しすると、あからさまというか、失礼になるから…。大きめのお菓子折りなんかを“台”にして、その上に乗せてさりげなくお渡しするの」
それを聞いて、血の気が引いていくのが自分でも分かった。
いくら紹介してもらったとはいえ、まだ入会が済んだわけではないのだ。お教室側のお眼鏡にかなわなければ、やんわりと入会を断られる可能性があることなど、あの電話からは易々と想像できた。
「もしまだ準備してないなら…しておいたほうがいいかも」
敦子さんが続けた言葉で我に返った私は、慌てて時間を確認する。
見学に行く13時半まで、あと45分しかない。
私は弾かれたように立ち上がると、エミリちゃんのおもちゃを借りて遊んでいた華の手を引く。
「ごめんなさい、私もう行かなきゃ。銀行と、どこかで良さそうなお菓子、見学の前に探してくる」
そう言って、慌ただしくマリエさんの家を飛び出そうとした、その時。
マリエさんと敦子さんも、私と一緒に身支度を整えていることに気づいた。
「葉月さん、間に合わないよ。送るわ。銀行とお菓子屋さんに寄ってから、ほうが会。
私たちもお教室へのお迎えが14時半にあるから、葉月さんを送った後はどこかでお茶してればいいんだもの」
マリエさんがそう言いながら、ベンツの鍵を指先で揺らす。
私は何度も「ありがとう」と頭を下げながら、マリエさんと敦子さんに言われるがままに車へ乗り込んだのだった。
2人に連れ出されて向かったのは、『ヨックモック青山本店』だった。
「小分けで無難」というアドバイスに従い、定番のクッキーアソートを急いで購入する。
そして銀行の前に到着した私は、ドアを開いて降りようとして、ふとあることに思い至る。
― “お礼”って、一体いくらくらいお包みすればいいんだろう…?
あからさまに「いくら包んだ?」と2人に聞くことは、さすがに憚られた。
マリエさんがあえて、「お金」と言わずに「気持ち」という言葉を選んでいたのだ。あからさまに話題に出すようなことではないはずだった。
ここまで親切にしてもらっている2人に、軽蔑はされたくない。
その一心で喉元まで出かかった質問をぐっと飲み込むと、私は車を降りて銀行へと足を踏み入れる。
そして、それが正解かどうかも分からないまま5万円を新札で準備し、先ほどマリエさんから分けてもらった鳩居堂の熨斗袋に丁寧に入れて、ヨックモックの袋の中にしまった。
◆
「ふぅ〜、到着!13時20分!何とか間に合ってよかったぁ。それじゃ葉月さん、いってらっしゃい」
「うちの翔子が悪さしてないか、見学の時にチェックしてきてね」
私と華を降ろして、マリエさんと敦子さんを乗せたベンツが遠ざかっていく。
「本当にありがとう!」
私は深々とお辞儀をして見送ったあと、目の前の建物を見上げた。
― 何度も前を通ったことはあるけど、こんなところにお受験塾があるなんて、全然気づかなかったなぁ。
恵比寿東公園──タコ公園からすぐ近くにあるオフィスビル。郵便受けに小さく「宝芽会」と書いていなければ、見逃してしまいそうな佇まいだった。
お教室は3階だ。薄暗いエレベーターに乗り込むと、正面に張られた姿見が私たち親子を迎え入れる。
予定よりもずっとずっと早く、紺色のスーツに身を包んだ、鏡に映る私。ファミリアのジャンパースカートを着せられた、まだ髪の毛が産毛の華。
― こんな格好しただけで準備万端だと思ってたなんて、私、バカみたい…。
エレベーターを降りると、「ほうが会」と記されたガラス扉がすぐ目の前にあった。
そして、小さなエレベーターホールには、色とりどりの画用紙で飾られた合格実績が、びっしりと壁一面に張り巡らされている。
そのどれもが、小学校受験で圧倒的な合格者数を誇る、そうそうたる名門幼稚園の名前だった。
― 私…私たち…、本当に幼稚園受験なんてする資格、あるのかな…。
5万円の現金を入れたヨックモックの袋が、どんどん重みを増しているように感じる。
先月まで何も考えていなかった自分が、急ごしらえのはりぼてのような支度で、こんなところに立ち尽くしている。どうしようもなく場違いで、心細い気分だった。
まだ、幼稚園お受験塾に入会すらしていないのに、これだけ未知のルールに翻弄されているのだ。
きっとこれから先も、この扉の向こうにも、これまで経験したことのないような異世界が広がっているのかもしれない。
私は、華の小さく暖かな手をぎゅっと握った。
― 華のためにならないと、少しでもそう思ったら…入会はしない。
そう決意して大きく深呼吸をし、ガラスの扉に手を掛ける。
「失礼します…」
小さな声で挨拶をしながら、中の様子をうかがう。
扉を開けたその先に広がっていたのは…全く予想だにしていなかった光景だった。
▶前回:”条件”をクリアした人だけが、入会を許されるお受験塾。勤務医の妻が電話をかけてみたら…
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足を踏み入れた、幼稚園お受験教室。葉月が目にした予想外の光景とは