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『ゴーストブック おばけずかん』と『学校の怪談』から考える、児童映画の“教え”の変化

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(c)2022「GHOSTBOOK おばけずかん」製作委員会

 90年代後半の『学校の怪談』シリーズと、2000年に公開された『ジュブナイル』以降、21世紀に入ってからこうした“夏休み映画”はすっかり影を潜めてしまった。注目を集める子役俳優はひっきりなしに現れるというのに、子どもたち(演者の実年齢としても、役柄としても)を主人公にした実写映画自体が少なくなり、メジャー会社の作品で興行的に成功したものといえば神木隆之介主演の『妖怪大戦争』(2005年)ぐらいしかないのである。

参考:新垣結衣&神木隆之介と初共演 城桧吏が語る『ゴーストブック おばけずかん』の貴重な経験

 子ども向け、小学生向けの作品というのは興行的成功には結びつきづらい。何よりその世代に向けた作品の多くがすっかりアニメーションに移行してしまった現代で、あえて実写映画として『ゴーストブック おばけずかん』が作られたことは、なんと喜ばしいことか。しかもそれが夏休みに合わせて公開されたこと、『ジュブナイル』の山崎貴監督が手掛けたことも相まって、2000年前後に小学生だった世代にとってはノスタルジーを禁じえないものとなる。きっと現代の子どもたちにとっても、実写映画と出会う格好の機会になってくれるはずだ。

 さて、この『ゴーストブック』の原作となった『おばけずかん』シリーズは、2010年代に登場した童話であり、小学校の図書室でとびきりの人気がある作品だという。そういった意味でも、90年代における常光徹の『学校の怪談』シリーズ(これを原作として生まれたのが映画『学校の怪談』シリーズだ)と同じような位置付けにある作品と考えることができよう。もっとも、“おばけ”あるいは“妖怪”という題材を通して民間伝承へ興味を持つ入口となり、同時に子どもたちに向けたホラー入門としての意味合いを持たせた『学校の怪談』と比較すると、よりキャラクターめいた、ファンタジックな作品というニュアンスを強く感じてしまうのである。

 それはこの映画版でも同様で、“おばけ”を怖いものとして描かないように注力していることがまざまざと見て取れる。それはホラーというジャンルへの苦手意識が強まりを見せる現代らしい部分と言えるかもしれない。かつてのようにテレビでホラー番組が作られる機会も少なくなり、映画など限られた方法で試聴されるホラー作品の多くが過剰な恐怖演出や不快感を植え付ける描写を当然のものとしていることで、“ちょうどいい怖さ”というものはすっかり失われた。それこそ先日の記事(※1)で触れた“ジュブナイルホラー”というジャンルが消えつつあるのは、その曖昧さへの忌避の結果であり、どちらかに振り切らなければならない、エンターテインメントに対しても白黒付けたがる世の流れによるものだろう。

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 映画は田舎町に暮らす小学生の一樹(演じているのは『万引き家族』の子役だった城桧吏で、たった数年ですっかり成長している)たち3人組が、ある願い事を叶えようと街の片隅にある祠にお祈りをするところから始まる。するとその夜、彼らの枕元に小さなおばけが現れ、それに導かれるようにして奇妙な古本屋に“おばけずかん”なるものを探しにいく。いざそれを手に入れて外に出ると、そこはいつもとは異なる世界になっており、人の姿はない。彼らは願い事を叶えるため、追いかけてきた臨時教員の瑤子先生(新垣結衣)と、幼なじみである湊(吉村文香)と5人で次々と現れるおばけたちを図鑑に封印するという試練に挑むのである。

 先に挙げた“白黒付けたがる”ような現代的なニュアンスは、子どもたちが異世界に彷徨い込むことに明確なきっかけが存在し、それを整然と順序立てて見せていくことでも発揮される。現れるおばけと戦うのではなく、知恵を絞って彼らを封印(=コレクション)していく。そして図鑑に封印した彼らを召喚すれば、それぞれ一度だけ願い事を聞いてくれるという特典が待っていること。『学校の怪談』シリーズのようなある種の不条理のなかで子どもたちに自発的に何かを見つけさせることを選ばず、あらかじめ用意された道筋を動かせる。ある意味でそれはゲーム的な手応えにも近く、まさしく『おばけずかん』と同時代に小学生たちを席巻した『妖怪ウォッチ』とも重なる部分といえよう。

 そうなれば2000年前後の小学生である筆者にとっては、ジェネレーションギャップを感じる瞬間が幾度となく訪れたわけだが、夏休みの平日朝一番のシネコンで、同じシアター内にいる小学生ぐらいの子どもがはしゃぎながら観ている声を聞けば、これが現代の子どもたちにとっての正解なのだと納得しないわけにはいかない。それでも劇中には随所に、我ら『学校の怪談』世代を刺激する、オマージュともとれる部分が散見していた。作品単位で挙げれば、1作目の『学校の怪談』と3作目の『学校の怪談3』だ。

 新垣結衣演じる瑤子先生の、置かれた状況を理解するのに子どもたちとワンテンポずれているさまは、さながら『学校の怪談3』における西田尚美の八橋先生のキャラクターによく似ている。また、学校という限定された空間を超越し、街全体を異世界化してしまうあたりも『3』に近いものがある。そして柴崎楓雅演じる、主人公の親友の名前が太一(『3』で主人公たちと心を通わせる幽霊の少年の名と同じだ)であったり、校庭が途中で崩れ落ちているさまも同作のクライマックスを抱負とさせるものがある。

 これは物語の核心に触れる部分であるが、病床にいるはずの少女が元気な姿で異世界に現れるという点は『学校の怪談』で岡本綾が演じた小室香織と重なる設定だ。とはいえ死の直前で学校への強い想いをもって生きた子どもたちと心を通わす香織に対し、本作の湊の登場する目的は、すでに心を通わせている親友たちの願いに応えること。タイムリープという荒療治によって彼女が死の淵から救出されるというプロットは、過去を変えてはならないSFの暗黙のルールを破るものであり、また元来このような児童映画が持ち合わせるべき“教え”が欠落してしまっている。そして彼らが一連の冒険の記憶を失ってしまうというのも、大人から観ればずいぶんと寂しい結末である。

 ただ興味深いのは、異世界から現実世界へと戻るプロセスである。『学校の怪談』では校舎の上層階から“落下”することで現実世界へのプールにダイブして戻ってきた。『学校の怪談2』では校舎の花壇を“上昇”し、『3』では境界空間をまっすぐに駆け抜けてきた。本作においては、境界をくぐり抜ければすぐに現実世界へ戻ることができ、プロセスよりも結果を求めるタイムパフォーマンス重視の現代らしい。瑤子先生の家がカラクリ屋敷と化し、落下するにふさわしい窓が用意されたのに機能しなかったのは勿体ない部分ではあるが、異世界への未練を一切持たない/持たせない情緒の排除は潔い。もっともそれだけで、現実世界を希求すべしという新たな“教え”を生んでいると捉えることができる。

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