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【御巣鷹山から37年】遺族の闘い「裁判に勝って、すべての真実を明らかに」

女性自身

 

第1に、墜落場所の特定が遅れ、救出が翌朝になったこと。

 

第2に、相模湾に落下し沈んだ垂直尾翼などの残骸が「引き揚げできない」と結論されたこと。

 

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第3に日航の高木社長(当時)の「私は殺される」という不可解な発言。

 

第4は、群馬県警事故対策本部長・河村一男氏に言われた「事故原因を追及したら、米国と戦争になる」発言。加えて同氏が退職後、関西で再就職した後の次の言動。

 

「あるとき突然電話がかかってきて、私を『監視するためにわざわざ関西に来ました。ずっと見ているから』と言うんです。その後も計3度ほど、電話で言われました」

 

だが、そもそも遺族の疑問は、「日航側が一度も事故原因の説明をしていない」ことに起因する。

 

「なんの説明もないから、遺族は疑問をぶつけようがない。論点の整理もできない。『取り合わない~はぐらかす』の繰り返しで疲弊させられるばかりでした」

 

そんななか、遺族は最終手段として訴訟を“試みた”のだが……。

 

1986年4月、日航、ボーイング社、運輸省各幹部を業務上過失致死傷罪と航空危険罪違反で告訴するも、1989年11月の東京地検、1990年7月の前橋地検ともに不起訴処分。

 

民事では1986年7月、吉備さんら70人が米国ワシントン州で損害賠償請求をしたが、「日本の裁判所で決定すべき」とされ、1990年8月に同州最高裁が上告棄却。同月、公訴時効が成立してしまった。

 

ほかに損害賠償請求は計32件あったが、すべて「和解」し、真相究明にはほど遠い決着に甘んじた。

 

「遺族の疑念は報告書の完成で封じ込められました。遺族の悪口を吹聴する世話役もいて、遺族間の分断が狙いだったんでしょうか。

 

私も、高木社長の『殺される』発言や河村さんの監視が無意識の脅威となって、声を上げる場所を失ってしまいそうでした」

 

 

■「すぐ救助していれば助けられた命があったのに……」

 

そんな窮地を一冊の本が救う。

 

元日航客室乗務員の青山透子さんが2010年に著した書籍(現タイトル『日航123便墜落 疑惑のはじまり 天空の星たちへ』河出書房新社)で、同事故の疑問点に初めて光が当てられたのだ。

 

「報告書の矛盾など数々の疑問を指摘していました。地元選挙区の中曽根首相が事故後3カ月も現場入りしなかったことも、検証していた。強い味方を得た思いでした」

 

2011年8月、吉備さんは上京し、青山さんに思いの丈をぶつけた。

 

「そこから青山さんがさらに取材を深め、個々の疑問が集約されて“争点”に変わっていきました」

 

のちの発表分も含む青山さんの著書群から要点の一部を抜粋する。

 

《当日18時24分に後部圧力隔壁が突風で破壊されたとの報告書の結論は、付近の生存者が誰も吹き飛ばされなかった事実と矛盾する。

 

報告書・付録(2013年公開)には、垂直尾翼のほぼ中央に「異常外力の着力点」と印が明記されている。

 

群馬県警本部発行の冊子に手記を寄せた自衛官、文集に作文を書いた上野小の児童など、ジャンボ機や追尾するファントム2機の目撃談が多数あった。

 

なかにはジャンボ機の胴体に楕円に付着していた朱色か赤色や、「真っ赤な飛行機」の目撃談もある。

 

上野村村長は墜落直後に国や県に「墜落現場は当村」と電話連絡。

 

米軍元中尉は墜落20分後に輸送機で現着したと後に証言。

 

事故直後に現場は特定されていたはず》

 

これらの要素を総合し青山さんは次の仮説を立てている(要約)。

 

《相模湾上空で、123便の垂直尾翼の「異常外力着力点」にテスト飛行中の自衛隊模擬ミサイルか朱色の標的機が衝突したのが原因だ。

 

墜落場所を知りつつ救助開始が遅れたのは、自衛隊が証拠の隠蔽工作をしていたからではないか》

 

これを「にわかに信じがたい」と訝る向きもあるかもしれない。

 

だが同時期、自衛隊の海上でのミサイル飛行テスト実施状況が各紙で報じられていた。

 

中曽根政権が防衛費1%枠の撤廃や国産ミサイル開発を推進するただ中だった。

 

また墜落現場でほぼ完全状態で発見された重要証拠の圧力隔壁を、事故調査委員が来る前日の15日に自衛隊が大型電動カッターで5分割してしまったのは事実である。

 

吉備さんが声を震わせて言う。

 

「救助された落合由美さん(当時26歳、CA)の証言では墜落当夜、現場で『おかあさん』とか『ようし、僕は頑張るぞ』という声が、しばらく聞こえていたといいます。

 

川上慶子ちゃん(当時12歳、生存者の1人で、両親と妹を失う)は、しばらく妹さんと会話できていたようです。すぐ救助していれば助けられた命があったのに……」

 

もはやボイスレコーダーの開示検証が必須なのは明らかだろう。

 

だが、報告書に記されたレコーダーの会話には空白部分が多く、存在するはずの高濱雅己同機機長とファントム機などとの通信記録が欠落しているのである。

 

吉備さんは決意を固めた。

 

2020年7月、三宅弘弁護士や経済アナリストの森永卓郎さんらの協力で「日航123便墜落の真相を明らかにする会」を発足し代表就任。

 

そして2021年3月26日、日航に対してボイスレコーダーとフライトレコーダーの生データ開示を求める民事訴訟を起こしたのだ。

 

当日、吉備さんはビデオメッセージで第一声を発した。

 

「疑問点を払拭するために立ち上がりました。

 

日航の持つ情報をすべて明らかにしてほしい、ボイスレコーダーを直接聞かせてほしい。

 

それが夫をはじめ520人の供養になり、遺族の当然の権利です」

 

いま、吉備さんは520人の魂とともに闘っているのだ。

 

 

■「主人がそばにいなければ、私は安心して泣けない」

 

「医師から『手術が必要。外出は禁止』と言われてしまいました」

 

かねて吉備さんは判決を見届けようと上京のためのトレーニングをしていた。

 

それは、自宅近くの坂上にある夫のお墓への日参。

 

「朝4時起きで、往復1時間かけて歩いていました。そうしたら股関節に無理がかかってしまい、夜も痛くて眠れなくなって……」

 

裁判では生データ開示を求めているが、被告は過去の新聞記事を証拠に「仮に情報提供義務があるとしても、すべて和解しているため義務は生じない」の一点張り。

 

8月12日、37回目の命日にはまだ、判決の報告はお預けとなる。

 

「きっと日航は、はやく私が死ねばいいと思っているでしょうね。

 

でも、絶対にくたばりません。

 

事故以来、主人のために泣けていないんです。主人がそばにいなければ、私は安心して泣けない」

 

そうして吉備さんは携帯ストラップの雅男さんの写真を見つめた。

 

遺影の威厳ある表情に比べると、髪を刈り上げ、より精悍な若き夫。

 

「主人の右手が見つかったとき、私は『やっと家に連れて帰れる』と狂喜しました。

 

でも姉が『なんで喜ぶの? 雅男さんが、亡くなったってことなのよ』と。

 

頭から冷水を浴びせられた思いでした」

 

幸せな日常を理不尽に引き裂かれたあの夏の憤怒を、37年の星霜を経たいまも、吉備さんは微塵も風化させていないのだ。

 

「主人の戒名『玅響院釋了信』は、『言いたいことがある、世界に響き渡ってほしい』という意味だと聞きました。

 

私には『事故原因を明らかにせよ』という主人の遺言のように響いているんです」

 

勝ってすべての真実が明らかとなり、愛する夫に向き合って伝えられるその日まで。

 

(取材・文:鈴木利宗)

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