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「料金はもう十分いただいたので」…走行中に料金メーターを切ったタクシー運転手の真意

幻冬舎ゴールドライフオンライン

ピアノ講師の妻・和枝と娘の遥とともに、穏やかで幸せな家庭を築いていた廉。何気ない日常がいつまでも続くと思っていたが――。「私、肺がんかもしれないって」。突如、和枝を襲った病魔。果てしない不安の中、家族を照らしたのは音楽だった。※本記事は、尾島聡氏の書籍『遥かな幻想曲』(幻冬舎ルネッサンス新社)より、一部抜粋・編集したものです。

涙を超えて

新しい一クール目の投薬が十月十五日に滞りなく終わり、一時帰宅のタイミングを待つばかりとなったが、白血球の値がいつになく低く、許可が下りなかった。

新しい治療は確かに入院期間が長く感じられた。前回までと比較すると体調もかなり良かったので、和枝は、頭では分かっていても、帰宅許可が下りないことへの苛立ちを隠しきれなかった。家で待つ遥も「弁当おいしくない」「ラーメンも食べられたもんじゃない」と、当たり散らし一日中不機嫌だった。

こういう何か空気がざわついた時にハプニングは起きてしまうものなのか。夜のこと、たまにはしっかりした食事を、と廉がトンカツを揚げ、遥と食べた。その後久しぶりにサッカーゲームをやろうということになった。テレビゲームではない、懐かしの盤ゲームだ。

遥がブリキ板の選手を盤上に立て始めたところで、廉は「ちょっと待ってて。デザートにバナナジュース飲まない?」とキッチンに入った。牛乳、バナナ、蜂蜜と適当に入れジューサーを回し始めたところ、下から牛乳が漏れているのが目に入った。慌てた廉は何を勘違いしたか、回転している刃の部分に右手を入れてしまったのだ。一目見て、あまりの傷の深さに気が動転した。

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キッチンの異変に悲鳴を上げ尻込みしてしまった遥に、中本さん宅まで走ってもらった。抗生薬を持って飛んできてくれた中本さんにタクシーを呼んでもらい、廉は市民病院の救急外来に向かった。

人さし指の付け根を深く切っていた。刃物もジューサーのプロペラだったため傷口は複雑な形で、縫合に時間がかかった。結局八針縫い、破傷風の予防接種も受け、病院を出たのは午前一時四十五分だった。遥は中本さん宅に預かってもらっていた。最初は半泣き状態だったが、お風呂もお借りし落ち着きを取り戻したそうだ。和枝から二時にメールが入った。こんな時間まで心配して起きていた。

その翌日、和枝に急きょ帰宅許可が下りた。廉が手の怪我の後処置で病院の外来が入ったのと、そもそも車のハンドルが握れなくなったため、タクシーで帰って来てもらうことにした。K大病院の玄関前から乗ったのは個人タクシー。運転手さんは髪は真っ白いけれど歳は廉くらいかな、と和枝は思った。

「藤沢の善行までお願いしたいのですが」と言うと、彼は後ろを振り向き和枝の顔を見てから、「今の時間なら道は空いているから、圏央道からじゃなく下道から行きましょうか。高速代もったいないしね」と親切に提案してくれた。

タクシーなど滅多に乗ることのない和枝は心底ホッとした。運賃がどれくらいなのかも見当がつかないし、長距離を、見知らぬ運転手と二人の道行きになるのが何より気重だったのだ。窓を二センチほど開け、すっかり秋めいた風が入ってくるのを心地良く感じていた。

座間、綾瀬と下道を安全運転で運んでもらいながら、和枝はいつの間にか自分の方から病気のことを話していた。

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