top_line

【 最新ニュースをアプリでサクサク読むなら! 】

天才打者・田尾安志が今明かす二度のトレードの真相「僕は中日を出てよかったと思っている」

日刊SPA!

天才打者・田尾安志が今明かす二度のトレードの真相「僕は中日を出てよかったと思っている」

 門田博光、田尾安志、広岡達朗、谷沢健一、江夏豊……昭和のプロ野球で活躍したレジェンドたちの“生き様”にフォーカスを当てた書籍『確執と信念 スジを通した男たち』。

 大男たちが一投一打に命を懸けるグラウンド。選手、そして見守るファンを一喜一憂させる白球の行方――。そんな華々しきプロ野球の世界の裏側では、いつの時代も信念と信念がぶつかり合う瞬間があった。あの確執の真相とは? あの行動の真意とは? 現役時代は天才打者の名を欲しいままにした男、田尾安志。そんな彼が選んだ「新設球団・初代監督」という茨の道。”信念の男”と呼ぶにふさわしい田尾の生きざまに迫る(以下、同書より一部編集の上抜粋)。

◆現役時代のフロントとの確執

 田尾は、現役時代に二度のトレードを経験している。

「一度目は“出され”、二度目は“出してもらった”」

 トレードされたこと自体は同じだが、意味合いは大きく違う。

 一度目の“出された”トレードは、’80年代で最も衝撃的かつ球界が震撼した大トレードだったと言われる。それだけに中日ファンは必ず一度は思ったものだ。

「もし田尾が中日にずっといたら楽に2000本は打てただろうに……」

 田尾に直接聞いても「自分でも2000本はいけたと思いますね」と即答するなど、揺るぎない自信のほどを覗かせた。それほど脂が乗りに乗っている時期だったわけだ。

◆人気選手がなぜ放出されたのか?

 急転直下の出来事が起こったのは、ちょうどプロ入り10年目の節目の年だった。’85年1月24日、各スポーツ新聞の一面は当時話題となったロス疑惑や松田聖子の単独破局会見(郷ひろみとの破局)だった。

 しかし、スポーツニッポンだけが一面に『キャンプ直前の大型トレード内定 西武・田尾』のキャッチが大きく躍る。交換相手は、サウスポーの杉本正とキャッチャーの大石友好の1対2のトレード。中日の顔とも言える田尾のトレードが本当であれば球界を揺るがす大ニュースだ。しかし、ファンや関係者はいつものように観測気球を上げた記事だと一笑に付し、誰も真剣に受けとめなかった。

 当日、田尾はいつものように車で合同自主トレ場所のナゴヤ球場へ向かった。

 午前10時頃ナゴヤ球場前の喫茶店で報道陣と談笑中に谷沢健一がちょっと眠そうな顔で現れた。田尾はわざとスポニチを持って「なぜか今度西武へ行くことになりました」と挨拶。誰もが誤報だと思っていただけに、谷沢も報道陣も「ようやるよなあ」といった感じで呑気に笑うだけだった。

 10時30分から合同自主トレが始まり、約2時間が経過した12時40分頃、田尾は球団関係者に呼ばれる。

「食堂に鈴木(恕夫)球団代表と山内一弘監督の二人が並んで座っていて、トレードを言い渡されました。まったく思いもよらないタイミングでしたね。監督の山内さんは無頓着な方なので、山内さんの考えではないなとすぐわかりました。3年連続で最多安打を獲得していましたし、『まさか』でした。鈴木代表とは合わなかったなぁ、いろんなことがあったんですよ」

 田尾は当時のことを思い出して苦笑いするしかなかった。

 4年連続での打率三割に加え、3年連続のリーグ最多安打。3年間で計501安打を放っていた。田尾以降、3年連続で最多安打のタイトルを獲得しているのは、イチローと秋山翔吾(現シンシナティ・レッズ)の2人しかいない。OPS(打者評価指数)にしても4年連続で八割超えと乗りに乗っている時期で、2年連続で全試合出場を継続中だった田尾は、中日球団史の中でも文句なしのスーパースターだった。そんな人気選手がなぜ放出されたのか―。

◆自分を貫き続けた田尾安志

 そもそも、田尾は自分の意見をはっきり言うタイプだけに上と衝突することも多かった。かつての同僚、宇野勝は笑みを隠しながら話す。

「近藤貞雄監督のとき、何年か前のことなのに『選手が門限を破ってラーメン横丁で食べている』と中日スポーツに書かれたんです。それで、次の北海道遠征では外出禁止を喰らいました。そしたら田尾さんが『普段、新聞なんか気にするなって言っている近藤さんが一番気にしている。こういうときだからこそ外へ行くんだ!』って悠然と誘ってきましたからね。さすがに僕は迷いながら断りましたけど、牛島(和彦)が一緒に出かけていきましたね」

 一本気の田尾らしいというか、なかなか真似できることではない、いや、普通しない。

 筋を通す性分の田尾は、’83年に選手会長になるとフロントにも遠慮なくものを言った。やがて、田尾と鈴木代表との間に溝ができていることを球団内で知らぬ者はいなくなった。まだこの頃のトレードにはネガティブな印象があり、双方の球団の戦力補強というより厄介払い的な意味合いのほうが強かった。そのため、田尾も中日に追い出されたというイメージが強い。

◆鈴木代表との間に溝ができたきっかけは…

 田尾と鈴木代表の関係がおかしくなった発端は、田尾がプロ入り4年目の79年シーズン中の試合前に起きた出来事にある。この年、田尾は初めてのスランプに陥り不調に喘えいでいた。代表職に就いたばかりの鈴木が試合開始直前にいきなりベンチに現れ、田尾を見つけるやいなや、

「今年はダメだなぁ~。こんなんじゃ年俸下げてまうぞ」

 そう冗談ぽく声をかけるが、その上からの態度にカチンときた田尾は即座に言った。

「僕はお金のためにやってません。これから小さな戦争をしに行くんですよ。こんなときにお金の話なんかするもんじゃないですよ」

 ここからフロントへの不信感が強まっていく。

 端から見れば些細なことかもしれないが、ゲーム前で神経が張り詰め、ましてや不調で苦しんでいるときにデリカシーの欠片もない発言を浴びせられたら誰だって怒りを表す。代表は選手を発奮させるために言ったのだしても、ゲーム前に絶対に言うべきことではなかった。そんなこともわからないでプロ野球球団の代表職をやっているほうがおかしい。

◆後輩の年俸アップを社長の自宅へ出向き直談判

「契約交渉のときでも悪いことしか言わないんですよね。給料を抑えることが仕事なのかもしれないですけど、人対人ですから。僕は肩書きだけで人と付き合わないのがポリシーで、金持ちだから良いとか、金を稼げないからダメだなんて思わない。その人の良さは自分で感じるもの。このときの代表は『ダメだな~』と率直に思いました。周囲から『あんまり言うと出されるぞ』と忠告されましたが、チームのためにやっていることを悪く評価されてしまうのならしょうがない。そう思って選手会長をやっていました。結局、出されてしまいましたけどね(笑)」

 田尾は選手会長として、老朽化した球場ロッカーの修繕、選手専用駐車場の設営など、選手にとってより良い環境の整備、そしてモチベーションを上げるための待遇の改善をフロントに訴えた。決して強気にガンガン交渉していたわけではなく、選手たちの要望を選手会長としてフロントに上げただけ。穏やかに振る舞って妥協点を探りながら交渉していても、フロントからすれば選手の分際で交渉すること自体がすでに生意気な態度と見なされる時代だった。

 ただ、選手たちの要望のなかで唯一専用駐車場の設営だけは強く交渉した。選手たちが一般の観客たちと同じ駐車場を使っていたため、行き帰りにファンに囲まれたり車にイタズラされたりと防犯上においても危険だと判断したからだ。

「牛島が契約更改で思ったほど給料が上がらず、やる気を失っていたのでこりゃいかんと思って、当時の堀田(一郎)社長の自宅まで行って『牛島の給料をもう少し上げてくれないでしょうか』と頼んだこともありました」

 いくら可愛い後輩のためとはいえ、わざわざ社長の家まで行って後輩の年俸アップを直談判をするプロ野球選手など聞いたことがない。しかし、田尾にとっては特別なことではなく、モチベーションが下がっている牛島の姿を見て気が気じゃなくなり迷わず行動に出たまでだ。

◆「僕は中日を出てよかったと思っている」

 田尾のトレード報道が流れると同時に、球団事務所には“トレード反対”の電話が殺到し回線がパンクしたという。翌日には中日新聞の不買運動にまで発展し、あらためて田尾人気の凄まじさを感じさせた。

 この世紀の大トレードは、明らかに中日側の損だと言われた。そして、このトレードで唯一株を上げたのは田尾自身だった。選手会長として遠慮なくフロントと遣り合い、メディアに露出すれば歯に衣着せぬ痛快な発言をしまくっていた田尾が中日を去る悲しみこそ語れど、球団への恨み節は一切口にしなかった。

「僕があのまま中日にいたら選手としてもっと良い成績を残せただろうけど、人間としてどうだったのかなと。ずっと中日一筋の立浪(和義、現中日監督)や山本昌は知らず知らず天狗になっていた部分がないとは言い切れない。それは自分では気が付けなくて、周りが陰口を叩くものだから。僕もずっと名古屋にいたら自分では気が付かないところで天狗になっていた可能性がある。だから、僕は中日を出てよかったと思っている」

 長年愛用していたロッカーを整理し、大きな荷物を抱えてナゴヤ球場を去るときも忸怩たる思いを表に出さず、最後の最後までトレードマークの笑顔を忘れずに“中日・田尾”として振る舞い去っていった。この日を境に、田尾は二度と中日のユニフォームに袖を通さぬまま今日に至る―。

【松永多佳倫】
1968年生。岐阜県出身。琉球大学大学院在学中。出版社を経て2009年8月よりフリーランスとなり沖縄移住。ノンフィクション作家として沖縄の社会学を研究中。他にもプロ野球、高校野球の書籍等を上梓。著作として『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『沖縄を変えた男 栽弘義―高校野球に捧げた生涯』(ともに集英社文庫)、『マウンドに散った天才投手』(講談社α文庫)、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』(KADOKAWA)、『確執と信念 スジを通した男たち』など

―[プロ野球界でスジを通した男たち]―

TOPICS

ジャンル