豪邸に住み、家事や子育てはプロであるハウスキーパーに任せ、夫婦だけのプライベートタイムを満喫する。
世間は、華やかな暮らしを送るふたりを「プロ夫婦」と形容し、羨望のまなざしを送っている。
法律上の契約を不要と語り、「事実婚」というスタイルをとる、ふたりの行く末とは?
◆これまでのあらすじ
慎一と美加は、世間から憧れのインフルエンサー夫婦。だが一方で、ふたりの夜の営みは一切ない。そんななか、慎一はハウスキーパーの里実から執拗なアプローチを受けており…。
▶前回:一緒のベッドに寝るのは2年ぶり。期待する夫に妻がとった驚きの行動とは
Vol.4 意味深な囁き
休日の午前中。
初夏の木漏れ日が降り注ぐリビングで、慎一はソファに体をうずめながら、今日の予定をぼんやり考えていた。
美加は雑誌の撮影に出掛けており、家には慎一と小学2年生の娘・華のふたりだけ。
華は美加の連れ子だが、3年間を共に過ごしたことで、本当の親子のような関係になっていた。
「天気もいいし、代々木公園にでも行かないか」
『テコナベーグルワークス』のベーグルをランチに、ピクニック気分で娘とデートもいいかもしれないと慎一は考えた。
すると、華から返ってきたのは衝撃的な言葉だった。
「いまから、友達が家に遊びにくるの」
「え、友達がくる?そんな急に言われても……!」
「だって、みんな来たいって言うから」
子どもは、重要なことを当日の朝に告げる。そんな愚痴を、子持ちの友人から聞いていた慎一は「コレか…」と思わず唸った。
「令羅ちゃんと深愛ちゃんとおうちで遊ぶだけなの。ね、いいでしょ。パパはリビングでゴロゴロしていてもいいから」
「そうは言っても、な」
美加はもちろん、慎一もある程度顔が知られているカメラマンだ。ボサボサ髪を見られ、親に報告されでもしたら…。
慎一は、慌ててノーブランドの部屋着から、ヌメロのロゴTシャツに着替え、髪を整える。
すると、インターホンが鳴った。
「はいはい、レイラちゃんとミアちゃんね……」
モニターに映っていたのは、華と同じくらいの2人の少女…、だけではなかった。
「はじめましてぇー」
悪意の来訪者
「そうなんですか、奥様はお仕事で…」
「すみません。皆さんがいらっしゃることを、華から先ほど聞いたばかりなもので…」
2人の友達の母親まで来訪してくるのは、慎一も予想外だった。
子どもたちは、華の部屋で持ち寄った玩具で遊び、すでに盛り上がっている。追い返すのも失礼だと考えた慎一は、母親たちをもてなすことにした。
エシレのバターケーキに、美容院で整えてきたような巻き髪。
彼女たちは数日前から示し合わせ、意図的に訪問してきたと慎一は直感する。
「それにしても、おしゃれなお宅。旦那様も素敵ですね」
「最初、娘から聞いたときは驚いたんですよぉ。ユキミカさんの娘さんと同級生だなんてー」
華は、地元の公立小学校に通っている。
美加の仕事が多忙でお受験どころではなかったという側面もあるが、今後の選択肢の自由度を考え、あえて公立を選んだ。
また、慎一たちが住む代々木界隈は、富裕層が多く住むという土地柄、他の地域の公立小学校に比べて良質であることも決め手だった。
― 良い学校だけど、色々な家庭の児童が集まる公立では、彼女たちのような非常識な感覚を持つ父兄もいるのか…。
慎一は暗澹たる気持ちになった。だが、その想いをすぐに笑顔の下に隠した。
「いえいえ。こちらこそ華と仲良くしていただいて嬉しいです」
「ご近所ですし、家族ぐるみで親しくできたらいいですね。美加さんってこの辺りにママ友はいらっしゃるの?」
「いますが、ママ友というより本人の友人関係の延長ですね…」
「なら、いつでも頼ってくださいね」
表向き感じはいい彼女たちだが、もし仲良くなったとしても、Instagramでは公にしたくないタイプだな、と慎一はジャッジする。
性格上のこともあるが、どこかあか抜けない雰囲気が、慎一夫婦のイメージからほど遠いと感じたからだ。
かといって慎一は、見下しているわけではない。私生活を切り売りしているインフルエンサーとしては、仕方がない。フォロワーに夢を与えるためにも、多少の演出は必要だと、慎一は考えていた。
「ところで…」
片方の母親が姿勢を正し、もう片方は身を乗り出して慎一に近づく。何事かと慎一が顔をしかめると、小声で彼女たちは囁いた。
「いいんですか?奥様の居ぬ間に…」
「は?」
「先日、ご主人が若い女性をお宅に迎え入れているところを見たんです」
― なんだ…、里実のことか。
少々ゾッとしたが、後ろめたいこともなかったので慎一は即答した。
「ハウスキーパーの女性ですよ」
「え…、でも」
「1ヶ月ほど前のことですよね。仕事で僕が外出していて、彼女の出勤のタイミングに間に合わなかったんです。なので、待ち合わせをして一緒に家に入っただけです。それが何か」
納得がいかなそうな表情を浮かべる、ふたり。
― もしかして、このことを探るためにやってきたのか?
幸せそうなインフルエンサー夫婦は虚構だと暴き、精神的上位に立ってやろうとでもしたのかもしれない、と慎一は思う。
― “多忙で裕福な夫婦”が、ハウスキーパーを雇っているくらい想像つくだろう。
彼女たちの浅はかな想像力に、慎一は腹が立ったが、華のために、怒りの態度を一切出さなかった。
「だが、何とかひと泡吹かせたい」と思っていた慎一の脳裏に、悪知恵が浮かんだ。
「本当は、ベテランの高齢女性か男性のハウスキーパーを希望していたんですよ。でも、紹介されたのが彼女で。
とはいえ彼女、若いのもあり時給設定が低いんですよね~。うちは『貧乏人』ですから。あ、よろしければご紹介しましょうか?」
慎一は、強烈な嫌味を母親たちに浴びせた。
ふたりはたじろぎ、しどろもどろになりながら遠慮した。また、その後は気まずさからか、すぐに子どもを連れて帰っていった。
ひとりになったリビングで、「しかし、里実のことは、なんとか対処しないと…」と慎一は頭を抱えた。
◆
里実の出勤日。
慎一は、けじめをつける意味で『カーサ ヴェッキア』へ、彼女を誘った。
「え…、辞めてほしい?」
席に着いた途端、解雇通告されるとは思ってもみなかったのだろう。里実は、震えている。
「年頃の女性が、妻の居ぬ間に家に出入りしているのは、たとえハウスキーパーだとしてもいかがなものかと思ってね。実際、娘の友人の親も勘違いしていたよ」
「でも美加さんは、私にずっと働いてほしいと言っていました」
「だから、彼女には君の都合で辞めることにしてほしいんだ。僕の勝手な判断で済まない。自己中心的なお願いであることは、理解している。しかし、穏便に済ませるにはそうするしかないと思って」
「私、迷惑ですか?」
里実は、ハンカチで目元を押さえる。その瞳は確実に潤んでいた。こうなったら、恥を承知で正直なことを言うしかない。
「勘違いだったら申し訳ないけど、最近の里実さんの僕への距離感はどうかと思う。もちろん、君の生活もあるだろうし、すぐ辞めなくてもいいから」
里実は、押し黙る。
そのタイミングで、料理が運ばれてきた。ふたりとも笑顔を見せず、無言で口にするその光景は、異様そのもの。
「…わかりました」
重い空気の後、里実は自己都合の退職を受け入れた。美加には近々、身内に不幸があったと告げるという。
◆
「じゃあ、契約更新月の来月末まで、ってことで。詳細は連絡するから」
一日の作業が終わった里実を見送るために、慎一は玄関に立っていた。退職を促した気まずさから、慎一は里実と目を合わせられずにいた。
だが、そんなことは意に介さず、里実は慎一をまっすぐに見つめ、立ち去ろうとしない。
「ご迷惑をおかけしました。でも…、勘違いじゃないですよ」
「え…」
里実は、慎一に抱きつき、耳元で囁いた。
「最近、我慢できなくなっちゃって」
慎一は拒否よりも、動揺で里実を咄嗟に振り払うことができなかった。
― ごめん、どんなに誘惑されても、僕は美加一筋なんだ…。
慎一の体は、冷たく硬直していた。反応を伺うかのように、さらに里実は続ける。
「だって、慎一さん、かわいそうなんですもん」
慎一は頭の中で、ただ里実が早く体を離してくれることだけを願っていた。
里実のその言葉に、深い意味があることに気づくのは、それから少し後のことだった。
▶前回:一緒のベッドに寝るのは2年ぶり。期待する夫に妻がとった驚きの行動とは
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里実問題が解決に向かうと思いきや、夫婦の関係に新たな爆弾が投下される。