13歳上の夫は、美しい妻のことを、そう呼んでいた。
タワマン最上階の自宅、使い放題のブラックカードに際限のないプレゼント…。
溺愛され、何不自由ない生活を保障されたセレブ妻ライフ。
だが、夫の“裏切り”で人生は一変。
妻は、再起をかけて立ち上がるが…?
◆これまでのあらすじ
夫・英治との話し合い中、突如現れた浮気相手の春奈は妊娠を報告。絶望していた里香だが、ついに仕事が決まる。だが初日から大失敗してしまい落ち込んでいた…。
▶前回:「私、実は…」夫の浮気相手から満面の笑みで告げられた、衝撃の“ご報告”
「ねえ、あの新しく入ってきた人。なんかワケありっぽくない?」
女性トイレに入ろうとしたところ、中から女性ふたりがヒソヒソと話すのが聞こえてきた。
入り口で足を止めて、耳をそば立てる。
「わかる〜。きれいな人だけど、仕事はできなそうだよね。すでにマネージャー怒らせちゃったし」
「あんなにきれいなのに、こんな待遇の悪い仕事するんだもん。絶対何かあるよね」
里香は、その場に立ちすくんだ。
見知らぬ女たちに好き放題言われて、嘲笑われている。自慢の美貌さえ、ネタにされる始末だ。
悲しさと悔しさがこみ上げてくる。先ほどの失敗も重なって、涙が出てしまう。
世の中すべて思い通りだった栄華の時代からの急転落。英治のもとを離れてから、苦難続きだ。
だがきっと、英治がいなければ自分の人生はこの程度なのだろう。
これまでが夢のようだったのだ。
現実を思い知らされた里香は、ひどく落ち込んだ。
入り口で呆然と立っていると、中から女たちが出てきて、「ヤバい」と息をのむ。
「お疲れさまです」
里香は丁重に頭を下げながらそそくさと化粧室の中へ入り、個室でさめざめと泣いた。
友人との語らい
その夜。
里香は友人・舞子を呼び出した。
「おつかれさま。話はゆっくり聞くとして、まずは乾杯しよう」
『4番サード魚真』で、舞子は瓶ビールをグラス2つに注ぐ。
新鮮な海鮮をお造り、焼き物、煮物、揚げ物と、堪能できるこの店は、どれも絶品。お酒が進む肴が揃う店だ。
すぐにビールのグラスは空き、里香も舞子も、各々好きなお酒をオーダーする。
あら煮や白子の天ぷらをつつきながら、里香は先日の英治との出来事や怒りをぶちまけた。
「英治さん、浮気相手の女のことを妊娠させたらしいわ。私のことを馬鹿にして!英治さんも英治さんだし、あの春奈って女も女よ」
「えっ…」
舞子は、背中をビクッとさせた。絶句するのも無理ないだろう。そんな彼女を横目に、里香は手元にあるグラスをとり、こう続ける。
「英治さんに未練なんかない。明日にでも別れてやるわ。でもね、傷ついたんだから手切れ金として、3億はもらってやるっ」
お酒も入り、里香はどんどん饒舌になっていく。
「職場の若い女たちもひどいんだから。僻みだかなんだか知らないけど、勝手に詮索されてワケあり扱いされて。まあ、ワケありだけど…。
あの女たち、今は笑ってるけど、明日は我が身。思い知ればいいわ」
里香が日本酒を口にすると、隣で静かに聞いていた舞子が「プッ」と吹き出した。
「ちょっと舞子、なに笑ってるのよ!?」
「ごめんごめん。なんかおかしくなっちゃって。大変だろうけど、里香、呑気なセレブ妻だった時代より、よっぽど生き生きしてる気がするよ。意外と雑草魂あるのね」
心外だった。極狭マンションに住み、あくせく働いて、職場の女から見下され、なにも良いことなどない。生き生きしてるなんて、そんなはずはないのだ。
「慰めてるつもりかもしれないけど、そういうおべんちゃらは要らないから」
「違うよ、本当だってば。でも今言うことじゃなかったね、ごめん。ねえ、さっき手切れ金3億もらうって言ってたけど、マジで思ってるの!?」
舞子に尋ねられた里香は、首を大きく縦に振る。
「だって、お詫びにヒマラヤバーキンを提案する男よ?そのくらい即金で払えるでしょっ」
「そうだとしても、彼が払うかは別問題でしょう。弁護士にでも相談してみたら?手切れ金3億って、なかなかハードル高いよ?」
大きなため息とともに、舞子は続ける。
「真面目な話、財産分与っていっても、里香がもらえる対象は、婚姻期間中に彼が得た財産のみよ?結婚していた時、すでに英治さんは大金持ちだったわけだし…」
難しい話になってきた。里香は途端に退屈になってしまう。ついお酒に手が伸びるが、その手を舞子に遮られた。
「明日も仕事でしょ?飲み過ぎたら大変。そろそろお開きにしましょ」
「残念だけど…うん」
落ち込んでいた里香だが、舞子とのひとときで元気を取り戻すことができた。
◆
「あっ、あの…」
翌日、14時。
フリースペースで、昨日の救世主がPCと睨めっこしているのを発見した里香は、恐る恐る声をかけた。
だが、反応はない。声が小さかっただろうか。今度は、わざわざ彼の視界に入るようにして声をかけてみる。
すると男は、怪訝そうな表情を浮かべながらイヤフォンを外し、ぶっきらぼうに答えた。
「なにか?」
「あ、あの。昨日は、本当にありがとうございました。助けていただいたお礼です。良かったら…」
里香は、ランチタイムに東京ミッドタウンまで走って買いに行った『サダハルアオキ』のボンボンショコラを差し出した。
だが、目の前のモサ男は要領の得ない顔をしている。
「なんでしたっけ?」
変なヤツ
― まさか昨日のこと忘れたの!?っていうか、私のこと覚えてない!?
内心苛立ちながら、里香は昨日の失敗を自ら説明する。
「クライアントとの会議資料、私が印刷を忘れてしまって…。困っていた時、プロジェクターで映せば良いって提案してくれましたよね。本当に感謝しています。ありがとうございました」
そこまで聞いたモサ男は、「ああ」と思い出したようにうなずいて続けた。
「あのマネージャー、自分が紙で確認したいだけなんですよ。クライアントは、ペーパーレスを推進していて、スクリーンに映してくれって言ってるのに。むしろ印刷を忘れてくれてありがたかったです」
ニコリともせず淡々と説明するモサ男に、里香は唖然とする。
「は、はぁ…」
なんと返すべきか頭を悩ませていると、モサ男が「そういうことなので」と、再びイヤフォンを装着し、PC画面に向かい始めた。
「ちょ、ちょっと!とりあえずこれ、お礼なので。失礼します」
モサ男の横にボンボンショコラを置いた里香は、軽く頭を下げてその場を後にした。
「なんなの、アイツ。良い人かと思ってたら、スーパー変な奴じゃない!」
里香は、オフィスに戻るエレベーター内で、ひとりだったのを良いことに嫌味をたっぷり言ってやった。
◆
その夜。
「疲れたぁ…」
帰宅するなり、里香は薄い布団に倒れ込んだ。この布団にも慣れてきたが、やはり薄くて寝心地は良くない。
英治から手切れ金をもらったら、うんと高級なベッドを買ってやるつもりだ。
「はあ、本当に疲れた…」
昨日から働き始めたばかりだが、仕事中は息つく暇もないほど忙しい。
次から次へと仕事を頼まれる。少し前まで、時間など気にせず悠々自適に過ごしていた里香にとっては、かなりの試練だ。
体は鉛のように重く、動く気分になれない。しばしゴロゴロしていると、スマホが光ったのが見えた。
起き上がるのも面倒なので、ゴロンと一回転してスマホを取る。
幸か不幸か、この極狭な部屋は、ゴロンと一回転すれば、四方八方どこでも行き着くのだ。
「うわっ…」
新着メッセージを開いた里香は、とっさに目をつぶった。呼吸を整えてから、もう一度目を開ける。
『この前は本当に申し訳なかった。まさか春奈が…、僕も想定外だった。こうなってしまった以上、僕も責任を取る必要があると思っている。里香の要望は何でも聞く。今後についてきちんと話がしたいので、一度会えませんか』
英治からだった。
責任を取るという言葉から、英治も離婚を覚悟したことを悟る。離婚、離婚と騒いでいたものの、こうして彼から連絡がくると、心がずしんと重くなった。
なんというか、急に離婚が現実になった感じだ。
メッセージを見つめながら数分しゅんとしていたが、里香はハッと我に返った。
「要望は何でも聞くって言ってるんだしね。たんまりもらって別れてやるわよ」
里香は、『承知しました。部屋に残した荷物も取りに行きたいので、土曜日にお願いします』と返信した。
◆
「さっき、残りの荷物を片付けてきたから。お世話になりました。これ、お願いします」
マンション近くのカフェに到着した里香は、席につくなり離婚届を取り出し、テーブルの上に広げた。
英治には事前に印鑑を持ってくるように言っておいたから、あとは書いてもらうだけだ。
早くと言わんばかりに視線を送るが、英治は、コーヒーカップを持ったまま黙っている。
「悪いけど私も暇じゃないの」
さっさと話を終わらせて帰りたい。たまらず里香が急かすと、英治は大きく深呼吸し、ゆっくりと口を開いた。
「いくら欲しいんだ?」
「えっ…」
突然の質問に里香が答えに窮すると、英治はこう吐き捨てた。
「離婚相手が俺で良かったな。俺と離婚するだけで大金もらえるんだから。儲けもんだな」
▶前回:「私、実は…」夫の浮気相手から満面の笑みで告げられた、衝撃の“ご報告”
▶1話目はこちら:「噂通り、頭が悪いんですね」突然家に来た夫の浮気相手に挑発された妻は…
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高圧的な英治にブチ切れた里香は、勢い余ってとんでもないことを口にしてしまう。