今日もどこかへ向かう乗客のために、おもてなしに命をかける女がいる。
黒髪を完璧にまとめ上げ、どんな無理難題でも無条件に微笑みで返す彼女は「CA」。
制服姿の凛々しさに男性の注目を浴びがちな彼女たちも、時には恋愛に悩むこともあるのだ。
「私たちも幸せな恋愛がしたーい!」
今日も世界のどこかでCAは叫ぶ。
Vol.1 空の上で渡される名刺
「あー、疲れた!」
土曜日の22時。
リモワのキャリーをゴロゴロ引きずりながら、七海は3日ぶりに自宅に戻ってきた。家を出たのは水曜日の朝。成田からシカゴに飛び、2日現地にステイし、成田まで乗務してきたばかりだ。
玄関のドアを開けると、部屋に閉じ込められていた湿気がムワッと流れ出てきた。
「暑っ!」
川崎駅から徒歩10分ほどの賃貸マンションは、羽田から便がいいことを理由に3年前から住んでいる。とはいえ、成田便のときは、遠すぎるのが難点だ。
七海は、玄関でローヒールのパンプスを脱ぎ捨てる。
そのままバスルームに向かい、お風呂の給湯ボタンを押す。そして玄関に戻り、その場でキャリーケースを広げた。
フライトから戻るとすぐに、着用済みの衣類を洗濯機に入れ、購入したものをしまうことが習慣づいている。
それから洗面所でメイクを落とし、鏡を見て「ふぅっ」と一息ついたとき、七海は違和感を覚えた。
― なんか、違うんだよなぁ。家を出た時と。なんでだろ?
キッチンの冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、グラスに注ぐ。それを一気に飲み干したら、また同じ「なんか違う」感じがする。
部屋をぐるっと見回し、クローゼットの中の部屋着を取り出そうとした時。
七海は“違和感の正体”に、ようやく気づくことができた。
「あれ?ない?」
慌てて洗面所まで戻ると、それは確信に変わった。
「なくなってる?新太の私物」
洗面所にあったアラミスのメンズコスメ、グルーミンググッズ。
ベッド脇のコンセントにささっていたサーフェスの充電器、クローゼットに何着か置いてあったスーツやシャツ、部屋着…。
跡形もなく無くなっているのは、付き合って1年になる恋人のもの。
― 衣替え?それとも出張があって取りにきたとか?
新太から何か連絡が入っているかもしれないと思い、七海はバッグからスマホを取り出す。
すると、案の定彼からのLINEが来ている。
急いでメッセージを確認すると、さっき空港から七海が送った『ただいま、帰ってきたよ♡』の下に、あまりにもそっけない一文があった。
『七海、ごめん。別れよう』
七海のあらゆる思考が停止する。そして、次の瞬間、反射的に新太に電話をかけていた。
「新太、ねえ、どういうこと?」
◆
翌週。
「七海さん、やっぱりハワイは最高ですねー。はい、カンパーイ!」
シカゴから戻り、3日間のオフの後、七海はハワイ便の乗務でワイキキにいる。目の前に座っているのは、2年後輩の莉里子、28歳だ。
ホテルでお風呂に入り、仮眠を取った後は、ルームサービスでも取ってゆっくりしようと思っていたのだが。
「えー!久しぶりのハワイなのに、もったいないから、行きましょ!」
莉里子に半ば強引に誘われ、彼女のお気に入りのレストラン『DUKE’S WAIKIKI』にやってきたのだった。
ワイキキの美しいビーチを目の前に眺め、莉里子はご機嫌でカクテルのグラスを傾けている。
― はぁ…疲れた…。
七海が、ため息をつきながら浮かない顔をしていると、莉里子がケールとロメインのシーザーをとりわけ、目の前に差し出した。
「で?3日間の休みは、ひたすら泣き暮らしていたってことですか?」
「まぁ、落ち込んだよね…」
先週、シカゴから戻った直後に届いた、新太からの突然のお別れLINE。七海は理由を聞くために電話をかけた。
「どうして、急にそんなこと言うの?」
「急に思ったわけじゃないんだよね…。七海のことは好きだけど、最近、すれ違いでほとんど会えないし」
新太は、七海と同じ30歳。メーカーに勤める彼は、残業はなく、土日もしっかり休むことができる。サーフィンが好きで、少し時間ができると季節を問わず、いい波を求めて茨城や湘南に出かけてしまう。
共通の友人の紹介で知り合い、付き合い始めて1年とちょっと。
コロナ禍は、七海のフライトが少なかったし、飛んだとしても国内ばかりだった。スタンバイの日も多く、2人で過ごす時間は十分取れた。
しかし、今年の春頃から、少しずつフライトが増えた。最近では元通りとまではいかないまでも、スケジュールに国際線のフライトも入るようになった。
「フライトの予定って、希望とか出せないの?休みは平日ばっかりだし、たまの日曜日に家にいてもスタンバイだとどこも出掛けらないし」
新太は、次第にお互いの休みが合わないことに文句を言うようになった。
「前から聞きたかったんだけど、七海ってずっと仕事を続けるつもりなの?」
結婚の2文字は出てこなかったが、将来のことを気にする口ぶり。
「体力的に厳しいと思うこともあるけど、私、この仕事が好きなの」
この時以降、なんとなく新太との間に隙間ができたような気がしている。
「すれ違いが嫌なんて…、どうしてCAを彼女にしたんだって感じですね。その男は!」
莉里子が怒り気味に言った。
「この前、言われちゃったんだよね。結婚したら海の近くに住んで、休みの日は家族でサーフィンしたり、キャンプしたりするのが夢だって。でも、君とは休みが合わないから無理そうだって…」
そういう七海の目線の先にはワイキキの青い海がある。次第に、彼女の瞳にうるうると涙が溜まっていく。
「七海さん、そんな男こっちから願い下げですよ。恋人が留守の間に合鍵で泥棒みたいに、私物を取りに戻り、LINEで別れを告げるって、男としてサイテー」
莉里子はプリプリと文句を言いながら、メニューを手に取った。
「七海さんがCAを辞めるわけない、って思っているから、追いかけてこないような理由を付けているんです。あ、もしかしたら他に女ができたのかも」
莉里子の言う通りだと、七海は頭ではわかっている。
彼のやり方はズルいと思う。
だが、それを認めてしまうと、これまでの楽しかった1年間の思い出までもが、消えてしまうような気がした。
海で子どものように楽しそうにはしゃぐ彼の姿が、七海の脳裏に浮かんでは消えていく。だが、諦めるしかない。
「今回のハワイは、失恋旅行ならぬ失恋フライトって感じだね」
七海がおどけて言う。
「とりあえず、お肉食べて元気出しましょ」
莉里子が明るく話題を変える。
「円安でなんでも高いですけど、もうこうなったら、ケチケチしないでパーっといきましょう」
そう言いながら、彼女がバッグのポケットからあるものを取り出した。
「じゃじゃーん!」
莉里子が七海の目の前に2枚の名刺を並べた。
そして、「今日フライト中にいただいた名刺です」とニヤリとした。
「これ見て!ほら」
そのうちの1枚を裏返すと、手書き文字で「ステイ中にご飯でもご馳走させてください」とあり、LINE IDが書かれていた。
「え?まさか呼ぶの?」
「呼びますよ。ご馳走させてくださいって書いてあるもの」
今日のフライトでは七海、莉里子ともにビジネスクラスの担当だった。
名刺は、その際に莉里子がお客様からもらったものだ。
「IT関連の社長と弁護士。どっちがいいですか?大学の友達同士で乗っていた弁護士の方が話弾みそうですよね」
ビジネスの場合、エコノミーに比べてお客様一人ひとりと関わる機会が多い。
色白な肌に艶やかな黒髪、太眉にぽってりとした唇。莉里子の容姿は同性から見ても色っぽい。それでいて人懐っこいので、お客様も声をかけやすいのだろう。
彼女は、機内での出会いをうまく利用するタイプで、最近別れた恋人も元お客様のイギリス人だ。
「莉里ちゃん、ハリーと別れてから彼氏いないんだっけ?」
「彼と別れてからは誰とも」
莉里子は情熱的に恋愛に走るタイプで、いつもハンターのように誰かを追っている。
「でも、いろいろな経験と反省から、私、もう見た目で選ぶのはやめました」
そう言いながら、該当のLINE IDを探し、慣れた様子でメッセージを打ち始めた。
「七海さんも仕事に理解のない男なんてさっさと忘れて、新しい出会いを見つけたほうがいいです。あ、もう返信きた!」
20分後。
「嬉しいなぁ。さっきまで同じ飛行機に乗っていたCAさんたちとご一緒できるなんて」
七海と莉里子の前に、LINEで呼び出した男性陣が現れた。
「急にご連絡しちゃってすみません。久しぶりのハワイなので、2人だけも寂しいかなって」
3人は同じ大学出身で、ヨット部だったという。
ヨットというワードに、七海はサーファーだった新太を否が応でも思い出してしまう。
「何を召し上がりますか?」
だが、そんな記憶を必死で打ち消し、七海は穏やかに微笑んだ。
CAたるもの、どんなに気分が沈んでいても、反射的に笑顔を作ることができる。筋肉が記憶しているのだ。
「じゃあ、ビールと、食事はオススメで!」
話も弾み、お酒も進んだ。途中、七海と莉里子は2人そろって化粧室に立った。
「意外と楽しいんだけど。呼んでくれてありがとう!」と七海が言うと「やっぱり?私も」と莉里子が答えた。
「話題も豊富だし、レストランでの振る舞いもスマート」
彼らと話していると「男は新太だけじゃない、他にもいい男はたくさんいる」と七海は思えてきた。
「真ん中の彼は既婚だからなしでしょ。右と左、日本で会うなら七海さんどっち?」
莉里子がメイクを直しながら聞く。七海はその様子がおかしくて、吹き出して笑った。
「やだ、莉里ちゃん。ビーフ or チキン?みたいに言わないでよ」
すると莉里子が七海の手を取り、真顔で言う。
「何言ってるんですか。人生は取捨選択です。七海さん、次の恋と婚活、がんばりましょ!」
その言葉に、七海の中で何かが吹っ切れたような気がした。
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恋人を忘れるために婚活をがんばってみようとする七海に、新たな出会いが