
※本記事は、夏目ゆきお氏の小説『濡羽色の朝』(幻冬舎ルネッサンス新社)より、一部抜粋・編集したものです。
兆し
安住の地
「ただいま」
声を聞いた優が飛んできて吾郷の腕を引っ張り、リビングに連れてゆく。
「あら、お帰りなさい。ジムにいったんでしょ。お風呂はいいの。あ、でも美南が入ってる」と加奈子が言った。
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「あとでいいよ。未来の名人のお誘いがあるから」と言っている間に、やろやろ、と優が将棋盤を持ってきた。まだ覚えたてだが、すっかりはまったようだ。吾郷は一応二段の腕前なので適当に教えながら相手ができる。「駒落ち」というハンデを与えるが手加減はしない。結局、吾郷が二連勝したところで加奈子から夕食集合がかかった。優は顔を真っ赤にしてまだ指したそうだ。
――そうそう、それぐらい悔しがらないと強くならないぞ。
ほっておいても男の子に育ってゆく優を頼もしく思えた。
夕食はいつものように家族団らんだ。残業や特別な用で遅くならない限り、夕食の団らんには間に合う。東京時代に、平日に子供と食事するのはほぼ皆無だった。たまには吾郷の両親も顔をだし、にぎやかな夕餉(ゆうげ)になる。年収はかなり減ったが、生活費は安上がりで十分補える環境がある。足るを知る。吾郷はこの故郷の町の平穏は永久に続くだろうと思った。
月城の春は東京よりやや遅いが、そのかわり訪れをはっきりと感じる。
「おはようございます」