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「富士山が見たかった」お寺で仏様の頭上に登った少年の言い分

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炊飯はガスの代わりにかまどとなり、女学生の姉の髪は、柳川高女規則のお下げに変えられた。小学生(国民学校生徒)は裸足で登校をする。学校校舎の入口に大きな水槽があってそこにドブンと入る。足を洗ったことになる。それから教室に入る。掃除は上級生下級生が一緒にやる。床拭きが主な掃除だ。完了すると全員が整列し、六年生が講評をする。ダメな生徒は拳骨で頭を叩かれる。いつも決まった生徒が殴られていた。

軍国主義時代といえ、おかしなことと思ったが見過ごした。例の軍隊の内務班教育のようなことを小学校時代から学校が認めていたのだ。

真夏の道路は熱い。溶けたアスファルトは裸足には堪えた。運良く馬車が通ると荷台の後方にしがみつき、足を浮かせ、道路表面の熱さから逃れた。逆に冬はともかく冷たかった。裸足での登校だから、感覚を失うほど冷たかった。朝礼をしていると弟の太寅がボソボソと列を離れて家に帰る姿をしばしば見た。多分冷えて下痢をしたか、栄養不足で小便を漏らしたからであろう。家に帰ると親に叱られるので乾くまで寺の倉庫裏でひなたぼっこをしていた。

いつも空腹であった。時々大川村に東京の家を焼かれ疎開をしていた金子ゆき伯母の家に皆で出かけた。畑の草取り、大根の間引きなど軽労働をした。その後白米をたらふく食べさせてもらうことが楽しみだった。

片道一時間の徒歩であったが、長姉をはじめ兄弟姉妹で習ったばかりの歌を歌いながら帰った頃を思い出す。特に長姉に柳川高女で習ったドボルザークの歌など新曲を往復の道を歩きながら教えてもらったのが懐かしい(後にチェッコ共和国の大学で教鞭をとった。同国がドボルザークの祖国であり、彼の音楽に同国の自然や文化の色彩を感じることとなった)。

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今は亡き伯母は、いつも空腹な我々家族のために、このような機会を設けてくれたのであろう。感謝したい。

戦時中には生活物資が無い。寝具にする材料が無いので、藁を集めてそこに寝た。小生の寝小便が治らないので、白木村の東洋医学の由布先生の所に通うことになった。幼い妹を背中に負ぶった篤子母と歩いて通ったが、ある時から白木村の武藤家に小生だけが泊まって治療を続けることになった。ひとりで泊まり、武藤家の子供達と遊んだ。普段食べられない苺を食べたのを思い出す。孟宗竹弁当箱で食べたりなど、林業中心の村での初めての経験は面白かった。

長崎市への原爆投下の瞬間に、何故か東京に残っているはずの父経秋が白木村の由布家の座敷に一緒に居た。座敷から閃光が見えた気がするが確かではない。大人の会話から異常事態であることは分かった。お陰でその後寝小便は治った。つまり筆者の寝小便は長崎原爆投下で止まったのである。

ここで白木村への長い道のりを一緒に歩いてくれた篤子母への思いと感謝を捧げたい。この体験が一番脳裏に残っている。その後、色々な出来事が起きて、篤子母との間もこじれた時期があった。それはそれとして、生前にもっと優しく接すべきであったと心から後悔をしている。

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