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本作を観ずに 今年の映画は語れない 『わたしは最悪。』『リコリス・ピザ』茶一郎レビュー

映画スクエア

はじめに

 お疲れ様でございます。茶一郎です。映画スクエアpresents 「スルー厳禁新作映画」第3回目の作品。少し公開から間が空いてしまいましたが、ロングランヒットしております、ご紹介の価値は十二分にございます、今回は『わたしは最悪。』そして『リコリス・ピザ』の2作品です。どちらも個人的には今年ベスト級に大好きな作品です。その「最悪」な主人公と「最悪」な人生の選択を優しく肯定する『わたしは最悪。』。ポール・トーマス・アンダーソン監督最新作。時代の記憶の中をゆるやかに一緒に漂うような、豊かな青春劇『リコリス・ピザ』。一体どんな作品だったかという事で、「スルー厳禁新作映画」、今回は2本立てでお願い致します。

どんな映画?-『わたしは最悪。』

 『わたしは最悪。』は、「ここではないどこか」「何か」を待ち続ける主人公の「最悪」な人生の選択を、序章・エピローグ合わせて全14章で見せる、オトナになれないオトナの絵本・エッセイのような一本です。本作は主人公「わたし」が大学に進学するところから始まります。成績が良いという理由だけで医学部に進学した「わたし」ユリヤは「人間の肉体より精神だ」と医学から心理学の道に転向し、パートナーと別れます。いざ心理学を学び始めると、講師と恋愛関係になり、やはり「何か違う」と。パートナーと別れて、今度は芸術の道へ。心理学の学生から写真家になります。この「何か違う」「ここではないどこか」を求め続けるユリヤは、芸術の道で知り合った年上のコミック作家の男性と恋愛関係になりますが、もうすぐ30歳という人生の節目に、パートナーの男性は「子供が欲しい」とユリヤに告げます。ユリヤとパートナー、二人の世界が少しずつすれ違っていく、またまたユリヤの心の奥底で「何かが違う」が発動してしまう『わたしは最悪。』冒頭でございます。

人生は映画のように美しい起承転結とはいかない

 僕がこの『わたしは最悪。』大好きなのは、「人生というのは混沌としたものなのだ」「人生は自分でコントロールできないんだ」といった事を描きながら、ささやかにその人生の混沌さを肯定してくれる事ですね。一人の映画作家の半生を描いた『8 1/2』は「人生は祭りだ。共に生きよう」と「人生はお祭りのように混沌としていて良いんだ!」と、そう「人生の混沌さ」を肯定しましたが、人生は映画のストーリーのように美しい起承転結とはいかない。人生の一瞬一瞬はバキバキにキマった映画のショットのようには安定しない。「何か違うな」というこの主人公・ユリヤのブラウン運動のようなフワリフワリとした不安定な生き方、映画に登場する人生とは思えない、現実に生きる我々の生き方にそっくりなユリヤの生き方、人生の選択にこれ、感情移入しないのは無理でしょう、という大好きな一本ですね。

 監督のヨアヒム・トリアーの前作、『テルマ』も、本作の冒頭同様、主人公の女性がオスロの大学に入学する所から始まる青春SFホラーだった訳で、時系列的には『テルマ』から繋がった続編がこの『わたしは最悪。』とも見ることができますが、とても精密に物語を運んで、一つ一つのショットもパキッとキマっていたその『テルマ』と比較して、本作はとても自由な物語運びをします。先ほどエッセイ的と言いました。時折、本筋とは関係ない小噺的な章も挿入され、アニメーションも入り込む。監督の最近の作品とは全然違う。初期作『リプライズ』『オスロ、8月31日』に連なる「オスロ三部作」の完結作として、原点回帰的に自由に撮られています。

 このある種の“ゆるさ”、自由な語りはまさしくユリヤの不安定な人生運びそれ自体を表していて、物語の中身、その語り口、二方面からユリヤの「最悪」で最高な生き方が補強されていきます。この“ゆるさ”がとても心地良い一本でもありました。

世界との対峙-人生は混沌だ

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 主人公・ユリヤとパートナーとのすれ違い。ユリヤの孤独が強調されるオープニングショットはとても印象的です。主人公の後ろで大きく広がる街並みを背景に、ピントは主人公だけに当たっている。カスパー・フリードリヒのような象徴的なショットで、この『わたしは最悪。』では何度か同様のショットが繰り返されます。ユリヤの抱える「この世界には私独りだけなんだ」という孤独。疎外感。後ろで大きく広がる世界の一方で、世界、人生に対して行き詰まっているユリヤ。本作の物語である世界VSユリヤ、人生VSユリヤがビジュアルとして印象付けられます。

 僭越ながら寄稿させて頂いた宣伝コメントではトリュフォーの『大人は判ってくれない』を引用しましたが、自分には反復されるこの画が『大人は判ってくれない』の主人公が世界とぶつかるラストと重なって見えてしまいました。大人になっても人生は結局、判らないままというのが『わたしは最悪。』な訳ですが……また『わたしは最悪。』は本当に取り止めのないエッセイ的な構造の映画ですが、その取り止めのなさを一旦、まとめる句読点のように劇中で三回、「。」「。」「。」と、主人公がオスロの街並みを歩くシークエンスが配置されています。

 世界に、人生に対して行き詰まったユリヤが、人生に対する向き合い方をゆっくりと変えていく、人生と対峙する散歩シーン。「何で自分は自分の人生の、自分の世界の主人公になれないのか」と、世界に取り残されたようにユリヤがトボトボと歩く、オスロの街を彷徨う訳ですが、オープニングショットから始まっていたこの世界に対するユリヤの対決、ユリヤに軍配が上がる瞬間を描いてくれますね。もう映画ご覧になった方なら誰もが「最悪だ最高だ」「最高だ最悪だ」と言いたくなる最悪で最高なシーン。ユリヤの思いが、今度は世界の方を取り残して爆走する、ユリヤの止まらない感情、衝動が肉体をはみ出て、人生すらはみ出て、動き出す、走り出す、走る、走ると、映画的としか言えない瞬間ですね。このシーンだけでこの映画『わたしは最悪。』は勝ってますよね。

 人生なんて理性でコントロールできない、それで良いわ!という最悪な瞬間を、最高に切り取ってみせる正しくはないかもしれませんが、美しい映画ですね。人生はコントロールできない、人生は混沌だと、お祭りだと、こんな最悪な人生でもこの先、続いていくんだと、我々と同じく「それでも続いていく」この人生を優しく肯定してくれる映画『わたしは最悪。』。正直、今年ベストの一本になると思います。

どんな映画?-『リコリス・ピザ』

 「走る」と言えば……青春は走れ、走れ、走れという2本目『リコリス・ピザ』です。この男がいる所にこそ「映画」「シネマ」があると言っても過言ではないポール・トーマス・アンダーソン監督=PTAの最新作。安易ですが、やっぱりPTA作品を観ている時が一番「映画」を感じる気がしますね。クライム劇から、群像劇、ラブロマンス、歴史劇、ハードボイルドコメディ、カルト教団、ポルノ業界からファッション業界、まるでキューブリックのように毎作毎作見事にジャンル、題材を変化させながら、毎作そのジャンル、題材の傑作を作り続けるという脅威の映画怪物ポール・トーマス・アンダーソン監督ですが、今回『リコリス・ピザ』は青春劇、『ブギーナイツ』とは違う甘酸っぱい恋愛青春物語という、これまた違う球種を見せます。

 50年代イギリス、初めて外国を舞台にした個人的に監督の最高傑作と言いたい前作『ファントム・スレッド』から、本作『リコリス・ピザ』では再びPTA作品の聖地とも言えるロサンゼルスは「バレー」、70年代のサンフェルナンド・バレーに戻って参りました。思えば『ファントム・スレッド』は結婚地獄映画。劇中の「いつからゲームをやっているんだ」というセリフの通り、歳の離れた男女の恋愛・結婚ゲームを描いた作品でした。歳の離れた男女の恋愛のゲーム、駆け引きの部分は『ファントム・スレッド』から引き継ぎ、『リコリス・ピザ』では高校生のゲイリーと25歳のアラナ、まだまだ子供な青年と、大人になりかけている女性の恋愛に落とし込んでいます。

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