見た目が年齢不詳なのは、そういうワケだったのかもしれない。
7月20日放送のNHK連続テレビ小説「ちむどんどん」第73回では比嘉優子(仲間由紀恵)が亡夫の賢三(大森南朋)と結婚するに至った経緯が語られた。その場に、意外な人物がいたという。
昭和53年のウークイ(旧盆の最終日)を迎え、比嘉家では賢秀・良子・暢子・歌子の4きょうだいが6年ぶりに勢ぞろい。母親の優子はこれまで子供たちに語ってこなかった、戦争当時の思い出を語りはじめた。
優子の実家は那覇の与那城食堂で、昭和18年ごろには賢三が住み込みの従業員として働いていた。賢三はもともと芸人一座の一員で、与那城食堂には客として通っていたという。その一座は運営が厳しくなり、賢三は横浜・鶴見に出稼ぎに行くことに。昭和16年には鶴見で働きながら、現・沖縄県人会会長の平良三郎(片岡鶴太郎)らに三線を教えていたようだ。
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その後、民謡歌手になりたいと沖縄に戻るも、夢破れて与那城食堂で働くことになった賢三。だが戦局はどんどん悪化し、昭和19年には賢三も召集され、中国に出征したのだった。
戦後、鶴見に復員した賢三は、母親の妹である大城房子が闇市で商っていた食堂を手伝うことに。だが翌年、沖縄出身の復員兵も米軍統治下の沖縄に行けるようになったことから、家族を探しに賢三は沖縄に戻っていたのであった。
「当時の沖縄では軍人や軍属用の捕虜収容所と、一般人を対象とした民間人収容所が設置されていました。賢三はおそらく民間人収容所を訪ね歩いたのでしょう。そこで再会したのが、与那城食堂の次女だった若かりし日の優子(優希美青)だったのです。優子は戦時中、空襲のなか家族とはぐれてしまい、弟と二人で避難。米軍に見つかって収容されるものの、弟は亡くなってしまいました。ほかの家族も戦争で亡くなってしまい、優子は天涯孤独となっていたのです」(テレビ誌ライター)
再会した二人は、賢三の実家がある北部のやんばるに向かい、そこで結婚。翌年の昭和22年には鶴見の房子宛てに「やんばるで結婚した やんばるで子供を育てたい 約束を破ってしまって申し訳ない」との手紙を送っていた。
賢三の両親がいつ亡くなったのかは不明だが、叔父の賢吉(石丸謙二郎)は健在だったことから、叔父を頼ってサトウキビ畑の経営を始めていたようだ。
このように優子と賢三が結婚した経緯が明らかになった今回、実はいまでも比嘉家の近くにいるとある人物が、優子の思い出のシーンに映りこんでいたというのである。