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近鉄を熱狂に引っ張ったブライアント「ボールを飛ばす力は練習で身に着けられない」【プロ野球はみだし録】

週刊ベースボールONLINE

中日の二軍でくすぶっていた男



パワフルな打撃で「いてまえ打線」の中核を担ったブライアント

 1980年代の近鉄は、助っ人がシーズン途中に退団するアクシデントが続いていた。84年に来日、入団したドン・マネーはメジャー通算176本塁打の長距離砲だったが、マンションにゴキブリが出るなど住環境の問題に家族が参ってしまい、29試合で退団。マネーと同じタイミングで入団して24試合に出場していたリチャード・デュランもマネーに続いてチームを去った。このとき補強したのがリチャード・デービスとマーク・コーリー。コーリーがオフに退団した一方で、デービスは強打で足かけ5年と活躍したが、88年シーズン途中に大麻取締法違反で逮捕され、解雇となる。慌てた近鉄が補強したのは、中日の二軍にいた助っ人だった。ラルフ・ブライアント。まだ一軍の出場すらなかった“第3の外国人”が、なにかとドラマチックな逸話が豊富な近鉄の物語を、さらに盛り上げていくことになる。

 ブライアントは中西太コーチの指導もあって6月の下旬から閉幕まで74試合で34本塁打の大爆発。最後は最終戦ダブルヘッダーで涙をのんだが、近鉄はリーグ優勝を争うまでに躍進した。翌89年には49本塁打で初の本塁打王。前年の雪辱を期していた近鉄は、このブライアントの活躍もあって、黄金期にあった西武を阻んでリーグ優勝を果たす。MVPに輝いたのは、天王山となった西武とのダブルヘッダーで2試合にまたがる4打数連続本塁打を放って、9年ぶりの歓喜を呼び込んだブライアントだった。

 その後は優勝から遠ざかった近鉄だったが、ブライアントの活躍は続く。90年には東京ドームでフェアゾーンの天井に初めて打球を当てて、このときは落ちてきた球を捕られてアウトになったが、翌日には天井のスピーカーに当てて初の認定本塁打に。以降も本塁打の量産ペースは衰えず、この90年には来日から3年に満たない時点で通算100号に到達。200号を突破した93年には42本塁打、107打点で本塁打王、打点王の打撃2冠に、翌94年には35本塁打で2年連続3度目の本塁打王に輝いている。

 規格外のパワーに関してブライアントは「オレは幸運にも、天性のパワーが備わっていた。ボールを飛ばす力は、練習で身に着けられるものではないんだ」と言う。さらに「確かにボールの行方をあまり気にせず、とにかく強く打つことを意識していた。もちろん、指示があったときはシングルや犠牲フライを狙ったよ。でも、シングルを打つだけでは、日本で長くプレーすることはできなかったはずだ。日本人選手に比べると、外国人選手へのプレッシャーは非常に大きなものだった。オレたちはたくさんのホームランを打つことを期待されている」と後年、その胸の内を明かしている。

 95年にヒジの手術で帰国。高額となっていた年俸もあって再契約はなく、オフに退団している。

文=犬企画マンホール 写真=BBM

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