ここ数年、トップクラスのアスリートが自身のメンタルヘルスの不調について、公に発言することが増えてきた。特にプロテニスプレーヤーの大坂なおみ選手が、2021年の全仏オープンで試合後の記者会見を拒否したことは世界中を巻き込んで議論となった。極度のプレッシャーと向き合うアスリートは、時にメンタルに大きな負担を抱えてしまう。そんな彼らが最高のプレーをできるようにするために、私たちには何ができるのだろうか? アメリカ在住の小児精神科医で、ハーバード大学医学部助教授、マサチューセッツ総合病院小児うつ病センター長の内田舞氏にお話を伺った。
メンタルヘルスの先進国、アメリカにおけるアスリートの実情

アメリカ在住の精神科医、内田氏はメンタルヘルスの先進国であるアメリカでさえ、アスリートのメンタルヘルスがオープンに語られるようになったのは、ここ最近のことだと言う。
「アメリカには以前からスポーツサイコロジー(スポーツ心理学)という分野があって、スポーツチームがメンタルトレーナーを雇うケースがたくさんありました。しかしそこで重視されるのは、主に勝つための精神状態を作る心理学です。セラピーセッションも、勝つための精神状態、一番いいパフォーマンスができる精神状態を作ることが主目的であることが多いんですね。もちろんそれも重要です。しかし、勝つためだけではなくて、同時に選手個人が幸せになるための心理学も必要だと思うんです。
アスリートが勝ちたいと思うのは当然ですし、健康的な考えです。しかし、その際、勝利か自分の幸せのどちらかを選択しなければならないわけではないはずです。ようやくここ数年、アメリカではそうした選手の幸せというものが重視されるようになってきたと思います」
その象徴的な例として内田氏があげてくれたのが、コロナ禍で大人気となったテレビドラマ「テッド・ラッソ」。これはアメリカンフットボールのコーチが、サッカーのコーチに転身するというコメディドラマだそうだが、セカンドシーズンでは、主人公がコーチを務めるサッカーチームにスポーツサイコロジストがついて、選手やコーチをカウンセリング。心のしがらみを取っていくといったことがテーマになっていたそうだ。
転機は、あのトップアスリートの勇気ある言動

こうしたアスリートを巡るメンタルヘルスに関する事情には、2021年の全仏大会においてプロテニスプレーヤー大坂なおみ選手がTwitterにあるメッセージを掲載したことが大きな影響を与えたと内田氏は語る。
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2021年5月27日、3日後に全仏オープンの出場を控えた大坂なおみ選手が、自身のTwitterで大会中は記者会見に応じない意向を示した。大坂選手は「アスリートの心の健康状態が無視されていると感じていた。自分を疑うような人の前には出たくない」という主旨の理由を記した(原文は英語)。全仏オープンを含むテニスの4大大会では、選手の記者会見は義務のひとつとしてルールブックに明記されており、拒否した場合は高額の罰金が科せられる。それでもなお拒否したことに対して、世論は二分された。彼女を賞賛する声がある一方で、記者会見に応じるべきだという批判の声もあがった。さらに他の世界的なプロテニスプレーヤーたちも自身の意見をSNSに綴り、世界中が注目することとなった。その影響を内田氏は次のように話す。

「もしも世界ランキングが彼女ほどではなく、30位の選手が自分のメンタルヘルスのために取材には応じませんと言っても、インパクトはなかったと思うんですね。あの一件の2ヶ月後に、アメリカ体操代表のシモーン・バイルス選手が、東京オリンピックの団体決勝を「自分のメンタルヘルスを守るため」という理由で途中棄権したんです。彼女はアメリカ体操界のスーパースターで期待されていましたが、大坂なおみ選手のときほどのバッシングはありませんでした。2ヶ月の間にアスリートのメンタルヘルスをどう扱うか、メディアがどのような対応をするかというのが議論されていたので、バイルス選手への反応は明らかに以前とは違っていたと思います。大坂選手が火をつけてくれたおかげで議論が進み、その恩恵を受ける選手が出てきている。まだ去年の出来事ですが、短期間で大きく変化していると思います」(内田氏)
脳は20代まで成長し続けている

こうしたメンタルヘルスの問題が議論されるときに、日本でよく聞かれるのが「鍛え方が足りないからだ」「辛さを乗り越えなければ強くなれない」といった、メンタルと肉体を混同した意見だ。しかし、こうした考え方に内田氏は警鐘を鳴らす。
「体を鍛えたり過酷な環境に身を置いたりして体が慣れてくればメンタルも強くなるとか、そういう単純なものではないんです。メンタルヘルスの症状というのは遺伝などの生物学的な要因と、環境的な要因が関係していて、2つが複雑に絡み合っています。たとえば同じ環境に置かれても鬱になる人とならない人がいますが、それは同じ環境に置かれても骨折する人としない人がいるのと同じです。同じ転び方をしても骨密度が高ければ折れないし、骨粗しょう症のような骨密度であれば折れてしまいます。そのように、生物学的な要因や遺伝的要因が絡み合って発症することが多いのです」(内田氏)
たとえば子どもの時に虐待されていたかいないかを比べたら、もちろん虐待されていた人の方が心の傷を負うリスクが高い。アスリートが置かれている環境も同じだと内田氏は分析する。

「トップアスリートは若い選手が多いです。たとえばオリンピックに出ている選手というのは、ほとんどが10代から20代前半。人間の脳はだいたい20歳後半くらいまで発達し続けますから、大抵のトップアスリートは脳が発達段階にあります。感情を感じる脳の部位は割と早めに発達しますが、感情をコントロールする部位はもうちょっと後での発達になるので、10代から20代の前半ではいろいろな感情が湧くけれども、それをコントロールする能力がまだ完全には備わっていない状態です。
オリンピアンでなくても、たとえば10代、20代で大変な恋愛をしていたような人が30代ぐらいで落ち着くとか、あるいは若い時はお酒を飲むと変なことをしていた人が、年を重ねてしっかりした家庭人になったなどということがありますよね。つまり、人間の脳って変わっていくものなんです。そんな脳の発達する途中にありながら、責任の重い凄く大きな判断を迫られることを、アスリートたちは日常的に経験しているわけです」(内田氏)
トップアスリートほど、実は安定したメンタルを築きづらい環境にさらされる
