その夜、廉との口喧嘩がもとになり、大泣きした遥が和枝にまで電話でかみついた。
「最近テレビがつけっぱなしになっている」という些細なことから、今後留守番が多くなる遥を廉が注意した。
「こんなんじゃ勉強できないだろ」と。
和枝も電話で廉に加勢した。
遥は「ママはちっとも遥と話す時間を取ってくれないじゃない。テレビだって見てるわけじゃないよ。ただ寂しいから音を出してるんだ」と泣きじゃくった。
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でも二分、三分と和枝と話すうち、あやされる子どものようにゆっくり笑顔が戻ってきて、冗談も出るようになる。ママと話し、携帯を耳に当てたまま、だんだん眠たそうになっていく遥。
しばらく後でかけ直した廉が「哺乳瓶を片手に、指しゃぶりしながら眠りに落ちていく、小さい頃の遥の姿と重なったよ」と言うと、和枝も言った。
「さっきの電話、ホントに泣けたわ」
骨髄抑制の血小板の減少ピークがなかなか底を打たないため、当初八月十二日を予定していた退院日が十五日にずれ込んだ。無理して退院を急いで、重い症状が出たのでは和枝自身がかわいそう。「第一クールで躓かせるわけにはいかない」という高井先生の慎重さを廉はありがたく受け止めた。
一クール目の退院予定日の翌日に当たっていた八月十三日、時村編集長に申し出ていた通り、廉は仕事に復帰した。和枝が病院に足止めされているため、遥には急きょ、生まれて初めての夜の留守番をお願いすることになった。
ほぼ三週間ぶりの出社。こんなに休んだのは入社以来もちろん初めてで、職場のある本館六階でエレベーターが停まり、ドアが開く瞬間は妙に緊張した。出勤時間にはまだ早く人もまばらな広い編集フロアを、真っ直ぐ時村編集長の席に向かった。
「やあ、お待ちしていました」
目の前の席を勧めてくれた編集長に、廉は立ったまま、まず今回の配慮にあふれた対応への心からのお礼を述べた。治療が順調に進んでいることを話すと、「それは本当に何よりです。平林さんの付き添い効果もあるのでしょう」と労ってくれた。
その後、一番肝心な件を切りだそうとした時だ。時村さんは「ちょっとコーヒーでも飲みませんか、平林さん」と、やんわり押し戻し、二階の談話室に廉を誘った。