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新日本プロレスVS全日本プロレス「仁義なき」50年闘争史【2】馬場と猪木の蜜月と決別

アサ芸Biz

 1966年3月、2年間の米国武者修行を終えたアントニオ猪木は、4月開幕の「第8回ワールド・リーグ戦」に参加するべく、帰国前にハワイでジャイアント馬場と合流して特訓を行ったが、一緒に帰国することはなかった。密かにハワイ入りした豊登に「新しい団体(東京プロレス)を創った。日本プロレスに帰れば馬場の下だが、こっちに来れば社長兼エースにするぞ」と口説かれたのだ。

 23歳の若き社長兼エースになった猪木は、馬場のインターナショナル・ヘビー級王座への挑戦状を内容証明付きで送ったが、日本プロレス・コミッショナーは却下。そして東プロは設立から1年足らず、2シリーズ全25戦、国際プロレスとの合同興行全20戦を行ったのみで崩壊してしまった。

 だが東プロでジョニー・バレンタインと演じた数々の名勝負によって、猪木は日本のトップスターにのし上がった。日プロが猪木に復帰を勧めたのは当然だ。

 67年4月に猪木が復帰すると、日プロは馬場と猪木をBIコンビとして売り出した。もちろん猪木の馬場に対するライバル意識が消えることはなく、69年の「第11回ワールド・リーグ戦」では直接対決はなかったものの、馬場の4連覇を阻止して初優勝。71年3月には馬場のインターに対抗してUNヘビー級王者になった。そうした馬場と猪木の切磋琢磨が日プロを力道山時代以上の黄金時代に導いた。

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 その一方で、我が世の春を謳う幹部たちの放漫経営が選手たちの不満となり、馬場と猪木は経営の健全化、選手の待遇改善のために手を組む。2人の仲を取り持ったのは馬場とも猪木とも親しい上田馬之助だ。

 計画は猪木の個人事務所「アントニオ・エンタープライズ」代表で、猪木後援会の会長でもあった計理士の木村昭政が練り上げ、500万円の使途不明金について取締役の遠藤幸吉を糾弾。71年11月28日の臨時役員会で、馬場、猪木が選手の連判状を開示して経理明朗化と健全経営を要求した。

 だが、この日を境に選手の結束が崩れる。同夜、芳の里代表、役員の吉村道明らに呼び出された上田が、「猪木さんの真の目的は、会社を乗っ取ることだ。シリーズ終了翌日の12月13日に幹部役員が慰労のゴルフコンペに参加している最中に会社の定款改正と役員人事の改正を強行して、自分が社長になるつもりだ」と告白したというのだ。

 この夜、馬場も呼び出されて真相を知ったという説があれば、12月1日に京都から名古屋に向かう新幹線で馬場が上田から真相を聞き出し、芳の里代表に報告したという説もある。

 後日、猪木サイドは、馬場に7000万円の借金があり、「近日中に1500万円の手形が2枚回ってくる」と馬場に打ち明けられたと主張。猪木が11月30日までに1500万円を調達したが、12月1日に馬場から「金はいらない」と断られ、それから馬場の態度が急変したと証言したが、真偽は不明だ。ともあれ、馬場と猪木は12月に入った時点で決別した。

 猪木は12月2日の浜松大会から完全に孤立。それはこの日から猪木のマッチメークがすでに決まっていた7日の札幌におけるインターナショナル・タッグ選手権(馬場&猪木vsドリー&テリーのザ・ファンクス)以外は、すべて外国人とのシングルマッチになったことでもわかる。

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