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「ボール球は振るな。我慢」中村紀洋の金言が奏功して55本塁打を放ったローズ【プロ野球回顧録】

週刊ベースボールONLINE

最後の“いてまえ打線”



01年に中村[右]とのコンビで近鉄を89年以来、4度目の優勝へと導いたローズ

 21世紀となって最初のパ・リーグ覇者となった近鉄だったが、結果的には最後の優勝となってしまった。そんな経緯もあって、2001年の優勝は強い印象を残している。猛威を振るう、という形容がふさわしい“いてまえ打線”。投手陣の防御率はリーグ最下位だったが、それを補って余りある猛打で頂点へと駆け上がっていく。その中心に並んでいたのが2人の長距離砲。和製大砲が中村紀洋であり、それ以上のパワーを誇った舶来の長距離砲こそ、タフィ・ローズだった。

 この“タフィ”は少年時代、あまりにもタフだったことから付けられたニックネームだという。文字どおりのタフさで日本でも長くプレーを続けた。巨人を経て近鉄の“遺伝子”が残るオリックスに至るまで3球団、13年にわたって通算464本塁打を残した。

 来日当初は長距離砲ではなく、俊足を誇る中距離ヒッター。カブス時代の1994年、メッツとの開幕戦で3打席連続本塁打を放ったことで自自身の打撃を見失った苦い経験も持つ。近鉄2年目の97年は22本塁打、22盗塁。だが、翌98年に右ヒザを故障したことで、「ケガの再発予防のためにウエートを始めたら、パワーも自然についた」と、パワーヒッターへの道を歩み始める。99年には盗塁こそ5と激減したが、40本塁打、101打点で打撃2冠。それを大きく上回ったのが、近鉄にとって最後のVイヤーとなった01年だ。


バットを地面と平行に寝かせての構えが特徴的だった

「3割、30本、90打点が“最低”の目標。ノリ(中村)とタイトルを分け合いたいネ」

 こう開幕前に語っていたが、その目標を“最高”の形で達成することになる。だが、序盤は出遅れ、本塁打王争いのライバルでもある西武のカブレラに一時は11本の差をつけられた。焦るあまり、ボール球に手を出して凡退する打席も続く。そんな悪循環の中、四番打者としてネクストにいる中村に言われたのが「ボール球は振るな。我慢、我慢」というアドバイスだった。6月18日の西武戦(西武ドーム)では全4打席すべてで四球。愛息の来日にも励まされて、ついに本塁打の量産態勢に入る。中村との三、四番コンビは優勝への原動力となっていった。

Vへ加速した歓喜の夜



01年9月24日、西武との天王山で当時シーズン最多に並ぶ55号本塁打をマークした

 5連勝で迎えた9月24日の西武戦(大阪ドーム)。近鉄はマジック3を点灯させていたものの、この試合に敗れれば2位の西武に逆転優勝の可能性が残る天王山だった。西武のマウンドにはエースの松坂大輔。試合は西武が主導権を握る。2点ビハインドで迎えた5回裏一死。1ボール1ストライクからの3球目、外角へのカットボールを豪快に引っ張ると、打球は近鉄ファンが見守る右翼席へと飛び込んでいった。試合の流れを引き戻しただけではない。これがシーズン55号となる本塁打。64年に55本塁打を放って以来、長く王貞治(巨人)が単独で立ち続けていたシーズン本塁打記録の頂に、初めて並んだ瞬間でもあった。

 近鉄は9回裏、中村の劇的サヨナラ2ランで逆転勝利を収め、優勝を決定的にした。ともに自己最多となる55本塁打、131打点のローズが本塁打王とMVP、46本塁打、132打点の中村が打点王獲得と、打撃3部門のタイトルホルダーとしても目標どおり肩を並べた。

 翌02年は本塁打王こそ逃したが、117打点で2度目の打点王、04年には巨人へ移籍したが、03年から51本塁打、45本塁打で両リーグにまたがる2年連続本塁打王。05年オフに米球界へ復帰も、07年に再来日、テストを受けてオリックスへ入団すると、2年連続で40本塁打を超える。08年には118打点で3度目の打点王に輝いた。

 退場は通算14回。豪快なスイングもあって“暴れん坊”のように誤解されがちだが、実際はナイーブで研究熱心、そして親日家だった。お立ち台では通訳を介していたが、日本語、それも関西弁をマスターして、ジョークで周囲を笑いの渦に巻き込むことも。大阪ドームへは大型バイクで通勤。大阪の小さな焼き鳥屋で焼酎を片手に焼き鳥をつまむのが楽しみだったという。

「僕が日本に来たのは27歳のとき。ノリは22歳で、みんな本当に若かった。彼らと一緒に成長して優勝できたことは最高の思い出だよ」

 みんなローズが好きだった。

写真=BBM

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