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AK砲の後ろを打ったデストラーデの矜持「五番に私がいたことによる彼らのメリットのほうが大きい」【プロ野球回顧録】

週刊ベースボールONLINE

スイッチヒッターの原点



左右両打席から長打力を発揮したデストラーデ

 1980年代から90年代にかけて、長く続いた西武黄金時代。80年代後半にはリーグ4連覇に3年連続で日本一、89年は近鉄に王座を奪われたものの、90年に早くも奪還、90年代前半はリーグ5連覇、3年連続で日本一に輝いている。80年代後半には背番号1の秋山幸二、背番号3の清原和博の“AK砲”がいた。ともに右打者だったが、その背番号は、かつてV9という不滅の黄金時代を築いた巨人の王貞治、長嶋茂雄の“ON砲”をイメージさせたものだった。そして実際、“ON砲”に肉薄する破壊力を持ったクリーンアップが完成した。“AK砲”の後ろを打ったのがデストラーデだ。

 80年代前半の巨人ではレジー・スミスら強打のスイッチヒッターが存在感を放ったが、デストラーデもスイッチヒッター。しかも、左右両打席から本塁打を量産した。クリーンアップに3人の長距離砲が並び、そろって打ちまくったという例はメジャーでもほとんどない。そして、90年代の3年連続日本一が、デストラーデがフル回転した3年間と重なるのも、決して偶然ではないだろう。

 6歳のとき、キューバからメキシコ経由でアメリカに亡命。9歳でマイアミにあるキューバ出身者のコミュニティーへ移り、野球を始めた。本来は左利きだったが、幼少時代に右利きに矯正され、右投げ右打ちで当たり前にプレーしていた。“異変”に気付いたのは10歳のときだった。

「バスケットのシュートで左手のほうがうまくいくと言ったら、父親に『忘れていた。お前はもともと左利きだったんだ』って(笑)」

 右投げ右打ちから、右投げ左打ちに。だが、左投手の変化球にタイミングを崩されることが多く、左投手のときだけ右打ちに戻す。これがスイッチヒッターのスタートだった。パイレーツから89年6月に西武へ。秋山、清原のあとを打つ五番打者として83試合で32本塁打を放った。

黄金期に3年連続本塁打王



西武が巨人に圧倒的な強さを見せた90年日本シリーズでMVPに

「彼らのあとを打つ私、というより、五番に私がいたことによる彼らのメリットのほうが大きいんじゃないかな。パワフルなバッターの前に、投手は走者を出したくないから、ストライクが多くなるしね」

 そんなコメントからは“カリブの怪人”のプライドが垣間見える。実際、90年から92年の本塁打王は、秋山でも清原でもなかった。90年は42本塁打と106打点、91年は39本塁打に90打点で、2年連続で本塁打王、打点王の打撃2冠に。92年は打点王こそダイエーのブーマーに譲ったが、41本塁打で3年連続の本塁打王に輝いている。

 圧巻は日本シリーズだ。無傷の4連勝で巨人を完膚なきまでに叩きのめした90年が自身の初出場だったが、第1戦(東京ドーム)で1回表に打席が回ると、立ち上がりで制球の定まらない槙原寛己から3ラン本塁打。「7球連続ボール球だったから、次は絶対ストレート」という狙いが的中、右翼席へと運んだ。この一発で流れが決まり、シリーズ打率.375、8打点もマークして日本シリーズMVPに輝いた。

 広島と激突した翌91年も第1戦(西武)の1回裏、やはりシリーズ初打席で佐々岡真司からソロ本塁打。ヤクルトとの顔合わせとなった92年の第1戦(神宮)では、2回表の先頭打者としてシリーズ初打席を迎えて、岡林洋一からソロ本塁打を放った。3年連続シリーズ開幕戦初打席本塁打は前代未聞の快挙。その3本すべてが、西武を3年連続の日本一へと運んでいく号砲でもあった。

独特のアクション



ホームランを打ったあとのド派手なパフォーマンスが十八番だった

 本塁打を放ったあとの、カンフーのような、あるいは空手のような、独特のアクションでも印象を残す。親日家で、日本語も堪能だったが、なぜか関西弁だった。陽気なキャラクターはチームメートからもファンからも親しまれたが、92年オフに退団して新設されたマーリンズへ移った。

 帰国1年目は四番打者も担ったが、その後は不振に陥る。デストラーデがマイナー降格か退団かを迫られていることを聞いた堤義明オーナーが自ら動いて再契約、95年に復帰を果たした。同年5月9日のオリックス戦(富山)では9点ビハインドの8回裏二死から東尾修監督のファンサービスで緊急リリーフしたものの、三塁打と2四球で降板する場面もあった。だが、故障や家庭の問題で6月には退団。西武も6年ぶりに王座を奪われている。

写真=BBM

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