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登録名でも異彩を放ったデニー。「背番号物語」も異色だった?【プロ野球はみだし録】

週刊ベースボールONLINE

背番号は4度の変更で4つ



西武では背番号「36」を背負ったデニー

 モデルのようなルックスで異彩を放ったデニー。プロ10年目、2チーム目の西武で開花した遅咲きの右腕だったが、最終的にはレッドソックスのマイナーも含めて4度の移籍を経て21年もの長きにわたってプレーを続けた。移籍と同様に多かったのが登録名の変更。「友利結」から1995年に「デニー友利」、西武1年目の97年から「デニー」となり、横浜(現在のDeNA)へ復帰して2年目の2004年には「デニー友利」、米マイナーを経てプロ野球へ復帰して1年目の中日でも「デニー友利」、現役ラストイヤーの07年は「デニー」でフィナーレを飾っている。

 登録名は3種類だが、米マイナーを挟んだときは変更なしと考えても、変更は4度を数え、米マイナーへの移籍をカウントすれば6度となる。ちなみに、指導者としては「友利結」で、これも数えれば7度だ。ちなみに、背番号はプロ野球だけで4つのナンバーを背負い、変更も4度。インパクトのある登録名の変更を繰り返したことを考えれば、(計算したわけではないが……)平均的な印象だ。


古巣・横浜に復帰した際は「41」を着けた

 ただ、それだけで終わらないのが(?)デニー(以下、キャリアハイとラストイヤーの登録名で統一する)。南海(現在のソフトバンク)の門田博光が本塁打の目標に大きな背番号に変更したことは有名だが、デニーの背番号物語は、背負ったナンバーの年齢が節目になる、というものだった。最初の大洋、横浜で背負ったのは「30」で、30歳を迎える1997年に西武へ移籍。そこで「36」を背負うと、36歳となる2003年に横浜へ復帰する。古巣で選んだのは「41」。このときは、41歳まで現役を続けられるように、という意味を込めていたという。

 だが、物語はメジャー挑戦で途切れる。中日でプロ野球へ復帰した06年は「46」。それまでは背番号の数字を大きくしていたデニーだが、翌07年、登録名を「デニー」、背番号を「36」と、転機となった西武で改めたものに戻す。そして、オフに現役を引退。このとき40歳だった。横浜へ復帰して「41」に託した願いはかなわなかったとはいえ、40歳までプレーを続けたことも、ある種の快挙であることは確かだ。

文=犬企画マンホール 写真=BBM

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