マウンドに永射、次の打者はソレイタ

日本ハムに移籍して大きく花開いた柏原
1977年オフ、南海(現在のソフトバンク)で野村克也が監督を解任され、退団することになり、左腕の江夏豊とともに移籍を志願したのが柏原純一だった。歴戦の野村、江夏と異なり、このときの柏原はプロ7年目を終えたばかりだったが、金銭トレードで広島への移籍となった江夏の一方、柏原は交換トレードで、新天地は日本ハムに決まった。柏原は南海の対応に態度を硬化させたものの、最終的には日本ハムの説得に応じて、移籍を承諾する。これが、さらなる飛躍を呼んだ。
ふてぶてしい“肥後もっこす”ぶりは日本ハムでも変わらず、移籍して数日で“親分”大沢啓二監督を「ドンさん」と呼んだという柏原。日本ハム1年目からプロで初めて全試合に出場、クリーンアップとしてチームに不可欠な存在となっていく。ふたたび江夏とチームメートとなったのが81年だ。当時は前後期制で、日本ハムは前期はロッテの後塵を拝したものの、後期に入ると快進撃。リリーフエースとして君臨した江夏の存在もさることながら、柏原の打棒も起爆剤だった。大沢監督から「優勝のためには、お前が打たないと」と言われて発奮した柏原。持ち前の勝負強さに加えて、前期は打率2割台だったものから3割台の後半に押し上げるなど安定感を発揮するようになる。
ただ、もっとも柏原らしい名場面は7月19日の西武戦(平和台)だろう。6回裏二死三塁の場面で、マウンドには“左キラー”の永射保。西武は柏原に対して敬遠策に出たが、柏原は敬遠球を強振して本塁打に。柏原の次に控える左打者のソレイタは永射を見て涙目になった逸話も残るほど永射が大の苦手で、これを知っていた柏原の独断だったという。柏原は85年オフに金銭トレードで阪神へ移籍、故障もあって3年で引退している。
敬遠球を強打したことでは阪神の新庄剛志がサヨナラ打にした場面が最近ふたたび注目を集めているが、このときコーチとして新庄の背中を押したのが柏原。21世紀に北海道へ移転した日本ハムにメジャーから復帰して大活躍、この2022年から監督として率いる新庄については、あらためて触れるべくもないだろう。
文=犬企画マンホール 写真=BBM