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【小説】民草が安寧に暮らせる世へ…三好4兄弟の集結

幻冬舎ゴールドライフオンライン

本記事は、児玉望氏の書籍『松永久秀~天下兵乱記~』(幻冬舎ルネッサンス新社)より、一部抜粋・編集したものです。

一  天文八年(西暦一五三九年)

はじめ右筆として範長様の御側近くに仕えた儂は、翌年には奉行人の一人として実務を任され、〈彦六郎〉では政務に都合が悪かろうと〈弾正忠〉の官途名の使用を許され、〈松永弾正忠久秀〉というたいそう立派な名乗りで、儂は政務に勤しんだ。

天文十一年のこと。十年もの間、河内国を中心に畿内で権勢を誇ってきた木沢長政であったが、範長様が頭角を現し、範長様が奉ずる細川晴元様が力を持ちはじめると、長政は危機感を覚えたのか、晴元派に戦を仕掛けてきた。

はじめの三ヶ月こそほぼ互角に睨み合ったが、河内南半国の守護代である遊佐長教が晴元派に与したことにより、形勢は晴元派が優勢となり、結局、河内国の太平寺付近での会戦で三好・遊佐連合軍が木沢勢を討ち破り、長政を討ち取った。

三好軍の中にあって一隊を任された儂ではあったが、この戦では何ら働きをみせることはできなかった。

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私事だが、この頃儂は姉の嫁ぎ先の縁者で、ひと回り以上も歳の離れた千春という名の若い女を二度目の妻に迎えた。見目麗しいとか、男好きのする容姿だとか、そういうことはなく、外見はごく有り触れた女であるが、その心根は至極やさしい質(たち)で、その穏やかな性格と出過ぎない賢さに、今後儂は、何度も助けられ癒されることになる。翌年には嫡男を生(な)し、儂の幼名と同じく〈彦六〉と名付けた。

二  天文十五年(西暦一五四六年)

去る天文十二年。細川京兆家(細川本宗家のこと)の庶流の細川氏綱が、弟の細川藤賢とともに和泉国の横尾山施福寺で挙兵した。これに河内の守護代遊佐長教や紀伊根来寺の衆徒が味方し、一大勢力となった。

氏綱の養父は前管領の細川高国で、三好範長様の主君である細川晴元様の政敵であったが、共に細川京兆家の家督を争い、最終的には晴元様が高国を攻め滅ぼし、晴元様が細川京兆家の家督を継いだ……という経緯がある。

氏綱勢の挙兵に対応すべく、晴元様は近江の守護六角定頼の支援を得て兵を集めた。範長様の下で儂も晴元勢として各地を転戦したが、一進一退で決着がつかず、両者は譲らぬまま三年が過ぎていった。

範長様が目指す〈民草が安寧に暮らせる世〉へは、一歩も進めない状態が続いていた。

天文十五年になると、どうしたわけか六角定頼や、池田氏などの摂津の国衆らが氏綱方に寝返り、あろうことか時の将軍足利義晴公までもが氏綱と結んだため、晴元勢は圧倒的に劣勢となった。

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