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彼の仕事が終わるまでもう少し。パリに2人だけの夜が近づく

幻冬舎ゴールドライフオンライン

※本記事は、葛生みもざ氏の書籍『Red Vanilla』(幻冬舎ルネッサンス新社)より、一部抜粋・編集したものです。

サン・ジェルマン・デ・プレ秋灯

頼んだのはフィッシュスープ。私はお魚のスープという名前から、ご飯代わりになるかと思っていた。

魚の切り身などが入っている具たくさんのスープ(以前、インドネシアのバリ島で経験した)を想像しながらオーダーしたのだが、出てきたスープはとろりとして、それはすばらしいスープだった。お魚の骨を粉にしたようなカルシウム感まで味わえる初めての味だった。また、新しいものを知ってしまった。

こんな不思議の国に入ってしまった私は、現実を離れ、人魚姫さながらパリの海に漂う。彼はこれから私とどこへ行くつもりなのか。どこかで食事をするつもりなのか。だとしたら開いている店はあるのか。何もわからないまま私はせっせと折り紙を続ける。でも、不安じゃない。怖くもなかった。午後十一時を回った。もう、閉店の準備だ。客は一組、食後の時間を楽しんでいる。

「もう時間?」と男性客の問いかけに「まだ、いいよ」と返事をしている。あ、彼が食事を摂り始めた。ピザを食べている。じゃあ、ゴハンに行くことはしないな。

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すると彼がピザの一切れを私に運んできて語りかけ、食べろという仕草をする。そのときはわからなかったけれど「ボナペティ(食べて)」と言ったのかもしれない。私は、お礼を言ってピザを口に入れる。きっとおいしいのだろうけれど、はっきり言って味はあまり覚えていない。やっぱり緊張していたのだろうか。ス・ソワール(今夜)が近づいていたのだから。

さて、きっかり午後十一時半になった。最後の客は帰り、私のグラスもペーパーで折った鶴もぐにゃと片付けられて、私も持ち物をバッグにしまう。店のスタッフがカーテンを閉め始める。キッチンからコックが階下に着替えに行く。途中ちらと私を横目で見ながら、意味ありげな表情をする。

コックの白い帽子が下に消えていくのを見ながら私は「あ、地下」と密かにつぶやく。私は降りたことはないけれど、そうよ、この店には地下がある。

ということは、それはかつての穴倉酒場といわれた地下クラブの名残じゃないかしら。お酒や煙草や香水も入り混じった地下で、夜ごと繰り広げられるダンス。お酒と音楽で上気した実存主義者たちの会話。一九四〇年代の息苦しくなるような男女の情景が漂ってきそう。

遠いパリの歴史の中に包まれながら、私はコートを羽織った。彼が「行こう」と私を促す。

彼はカーテンを引いているスタッフに何か言っている。その若者は後ろ向きに返事をする。機嫌が悪いのかな。私は陽気に「オルボワール(さようなら)」と声をかけるとその若者はやはりカーテンを引いたまま「オルボワール(さようなら)」と返してくれた。これから連れだって出かける二人を見るのは野暮だと言わんばかりだった。

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