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手塚治虫についての本6冊。天才漫画家はどんな人物だったのか。

ホンシェルジュ

マンガの神様、手塚治虫とはどんな人だったのでしょうか。何本も連載を抱え鬼のように仕事をしていた、速読の達人だったなど、さまざまな逸話が残っています。今回は手塚治虫の実像に迫る本ばかりを集めました。手塚マンガがより一層胸に迫ることでしょう。

マンガとアニメに生涯を捧げた手塚治虫

手塚治虫は1928年、大阪府豊中市に生まれ、治と名づけられました。5歳の時に宝塚市に移り、24歳までを過ごしています。両親の影響からマンガやアニメに親しみ、宝塚大劇場などの行楽施設で大きな影響を受けました。

1935年に池田小学校に入学。いじめの対象となりましたが、漫画絵を描くことで皆に認められていき、いじめもしだいになくなります。昆虫採集にも興味を持ち、ペンネームとして手塚治虫という名前を用いるようになったのもこの頃。1945年の大阪大空襲では九死に一生を得る体験をし、この経験により、生命の尊さをテーマしてマンガを描き続けることとなりました。

デビューは1946年、「少国民新聞」の4コマ漫画『マアチャンの日記帳』の連載でした。その後『新宝島』で赤本ブームを巻き起こし、次々に作品を発表。そして1950年、雑誌「漫画少年」で『ジャングル大帝』を書き始めます。そして『アトム大使』『リボンの騎士』『火の鳥』などの人気連載マンガを描きました。

1961年もともとアニメーションにも興味を持っていた手塚は、手塚プロダクション動画部を立ち上げ、日本初の30分テレビアニメーションシリーズ『鉄腕アトム』の制作を始めました。その後『ジャングル大帝』もアニメ化。その間も『マグマ大使』『W3』など数多くの作品を描き続けています。

1968年頃から、他のマンガ家の台頭で人気が落ちてきたことやアニメーション事業の経営不振も影響し、手塚にとっては冬の時代が訪れます。しかし1973年『ブラック・ジャック』により復活。『三つ目がとおる』『ブッダ』など、また多くの連載を抱えることとなりました。

日本のマンガ界、アニメ界に大きな影響を与え、その世界をけん引した人でしたが、1989年に60歳という若さで亡くなりました。死ぬまで描き続け、多くの人に感動を与えた人生だったといえるでしょう。

手塚治虫にまつわる逸話6つ!

1:マンガの神様は嫉妬の神様でもあった?

数多くの漫画家が影響を受けている手塚治虫ですが、彼自身が才能溢れる人物であったのと同時に、その他の著名な漫画家へ痛烈な批判を浴びせることがしばしばありました。

たとえば、同じく戦火を生き延びた水木しげるに対しては彼の作品『墓場鬼太郎』を読んで、階段から転げ落ちるほどの衝撃を受け、以降は敵対心をむき出しにしたと言われています。 石ノ森章太郎には『仮面ライダー』を読んで、「才能がない」と告げて石ノ森を泣かせて漫画家引退を決意させるほどの衝撃を与えていたと言われています。

2:日本のアニメーション産業の功罪を牽引した漫画家だった?

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手塚は当初こそ漫画の連載にて大成功を収めていましたが、60年代になってだんだんとテレビが発達していくと漫画よりもテレビに注目が集まることになります。 彼はそこで『鉄腕アトム』や『鉄人28号』といった自身が手掛けた漫画をアニメ化することで逆転を図ろうとします。

当初はアニメといえば子供が見るもので実写ドラマには遠く及ばないという認識でしたが、彼の作品はそんな認識を打ち破るほどの数字をあげて現在まで続くアニメーション制作のビジネスを打ち建てました。 しかし宮崎駿は、これを日本のアニメ業界の功罪両面備えた業績だと主張します。

手塚は当初伸び悩んでいた利益をキャラクターグッズ販売などで補ったり、安い人件費で制作陣を長時間労働に従事させるなど、職人気質ゆえの待遇の悪さや彼自身が昼夜を問わずひたすら制作に励むために下の人間の労働雰囲気を形成してしまったというのです。

彼の時代から作り出された職人気質のアニメ制作は、その技術力の高さと相まってさまざまな疑問を後世に投げかけているのかもしれません。

3:自分が書いた漫画は細部まで覚えている

『ブラックジャック』を連載していた頃、彼はアメリカに出張に行かなくてはならない時がありました。しかしこの時に『ブラックジャック』の原稿は手つかずでした。そこで手塚はアシスタントに背景、自分はキャラクターだけを書いてつなぎ合わせるということを思いつきます。

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