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5分でわかるハプスブルク家!ヨーロッパ名門貴族の栄枯盛衰と、おすすめ本

ホンシェルジュ

結婚政策を駆使して神聖ローマ皇帝となり、中世ヨーロッパ最大の君主となったハプスブルク家。ヨーロッパ屈指の名門貴族です。この記事では、始まりから最盛期まで、その栄枯盛衰をわかりやすく解説していきます。またおすすめの本も紹介するので、ぜひチェックしてみてください。

ハプスブルク家の始まりは?スイスの領主がオーストリア大公に

 

愛と美と性を司るギリシアの女神アフロディーテと、トロイア王家のアンキーセースとの間に生まれ、古代ローマ建国の祖となったアイネイアース。彼の子孫はユリウス氏族と呼ばれ、ユリウス・カエサルをはじめとする多くの顕官を輩出し、古代ローマ随一の名門貴族となりました。

ハプスブルク家は、そんなユリウス氏族の末裔で、スイス北東部を発祥とする貴族です。

歴史上さかのぼることのできるハプスブルク家の始祖は、7世紀から10世紀頃、現在のドイツ南西部からフランスのアルザス地方を治めていたエティション家のグントラム金満公だといわれています。

1020年から1030年頃、彼の孫のクレットガウ伯ラートボトは、スイス北部のアールガウ州に「ハビヒツブルク城」を築きました。これが後にハプスブルク城と呼ばれるようになり、城主の家名となります。

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13世紀なかばに、フリードリヒ2世と後継のコンラート4世が相次いで亡くなり、ホーエンシュタウフェン朝が断絶。ローマ王の座が空位になっていました。ローマ王というのは、諸侯に選挙で選ばれた神聖ローマ帝国の君主が、ローマ教皇から正式な戴冠を受ける前に名乗る称号です。諸侯や教皇の権力闘争でなかなか次のローマ王が決まらなかったことから、この時代を「大空位時代」といいます。

さまざまな対立関係があるなかで、妥協案として提案されたのが、まだ弱小で思い通りに扱いやすいと考えられたハプスブルク家の伯爵でした。ルドルフ4世がローマ王に選出され、ルドルフ1世となります。

その後ルドルフ1世は、勢力を拡大していたボヘミア王オタカル2世と対立。1278年の「マルヒフェルトの戦い」で勝利し、諸侯の思惑を越えて勢力を拡大していきました。

1282年にはオタカル2世の旧領だったオーストリア公国を獲得し、本拠地をスイスからオーストリアに移していきます。

ハプスブルク家は、ルドルフ1世の後も息子のアルブレヒト1世、フリードリヒ3世と3人のローマ王を輩出し、ヨーロッパでも指折りの名門貴族へと発展しました。

1359年になると、ルドルフ4世が「大公」を名乗ります。この称号は当時存在していないものでしたが、ルドルフ4世は「ハプスブルク家は選帝侯を上回る特権、すなわち自分の領内で爵位を授与し、封土を与える特権を有している」と主張しました。

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