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エドワード黒太子の墓に隠された秘密がX線撮影で明らかに(14世紀、イングランド)

カラパイア


image credit:Josep Renalias / WIKI commons

 イギリス、カンタベリー大聖堂を訪れた者は、大理石の墓の上に横たわる全身甲冑に身を包んだ14世紀の騎士の像を見ることができる。

 これは、イングランドの王太子、エドワード黒太子の墓で、中世イングランドの時代から残っている6つの大型鋳造彫刻のひとつでもある。

 このたび、コートールド美術研究所の研究チームが、X線や医療用画像処理技術を駆使して科学的調査を行ったところ、600年ぶりに金と銅の合金製の像の内部を初めて見ることができた。

 これまで、エドワード黒太子の墓は本人の遺言で作られたと伝えられてきたが、実はエドワードの息子、リチャード2世によって作られた可能性が高いという。

 この研究は『The Burlington Magazine』に発表された。


600年以上謎に包まれていたエドワード黒太子の墓

 調査を行った、コートールド研究所の中世研究家ジェシカ・バーカーによると、これまで、エドワード黒太子の墓や像に関する文献が少なく、その建造、年代、庇護者などについての詳細はわかっていなかったという。

 今回、最新の科学技術を駆使して、像を詳しく調べた結果、どのように鋳造され、組み立てられ、仕上げられたのか、多くのことが明らかとなった。

エドワード黒太子の肖像画 / image credit:public domain/wikimedia

百年戦争で輝かしい戦績を残したとされるエドワード黒太子

 エドワード黒太子の通称で知られている、エドワード・オブ・ウッドストックは、イングランド王、エドワード3世の長男で、王位継承者で、優れた軍人であったとされる。

 哲学や論理学の教育を受け、戦術にも非常に長けており、その力量は、フランスの侵略が常に脅威だった「百年戦争」時代に大いに発揮された。

 黒太子の初陣は先兵を務めた1346年の有名なクレシーの戦いで、わずか16歳のときだった。激しい逆襲を受け、若き黒太子は、父王に援軍を求める伝令を出した。

 エドワード3世は、父親としての情を封じ込めてこの要請を断り、息子に戦場での武勇を証明するよう強要した。

 結果的に、若き王子は勝利をおさめ、軍人として輝かしいキャリアを見せ始めた。

 例えば、1350年のクレシーの戦いでは目覚ましい働きをして、軍を率いてフランス、アキテーヌ地方へ攻め込み、複数の町を次々と略奪した。

 大勝利のひとつは、1356年、百年戦争の一環としてプランタジネット朝イングランドとヴァロワ朝フランスの間で行われた戦の「ポワティエの戦い」で、エドワード黒太子軍はフランス軍を撃破し、フランス王ジャン2世を捕虜とした。

 それから10年ほどをアキテーヌで過ごし、黒太子はアキテーヌとガスコーニュの王子の称号を得た(ガスコーニュの貴族たちは断固として認めていない)。

テルフィア美術館に所蔵されている、ジュリアン・ラッセル・ストーリー「クレシーの黒太子」の複製(1888年) / image credit:public domain/wikimedia

なぜ黒太子と呼ばれるようになったのか?

 なぜ、エドワードが黒太子と呼ばれるようになったのかについて、歴史家たちの意見は一致していない。

 黒太子と呼ばれたエドワードの記述が初めて出てくるのは、16世紀の詩人で歴史家のジョン・リーランドのふたつの手書き原稿だとされている。

 シェークスピアは、1599年頃に書いた『ヘンリー5世』の中で、エドワードのことを”あの黒い名前
、エドワード、ウェールズの黒太子”と呼び、1595年頃の『リチャード3世』の中でもふれている。そのため、16世紀末にはこのあだ名が定着したと思われる。

 今のところ、エドワードが必ず黒い甲冑で戦いに臨んだからという説が有力で、フランス側の記録には、彼が”磨かれた鋼の黒い甲冑”(armure noir en fer bruni) を身に着けていたという記述がある。

 他にも、戦いでのエドワードの残忍性がよく知られていたため、ここからつけられた名だという説もあるが根拠に乏しい。

 イングランドでは、彼は高貴な騎士道の典型とされていたが、フランス、アキテーヌ地方では、当然のことながら、まったく異なる見方をしていた。

上から見たカンタベリー大聖堂にあるエドワード黒太子の像 / image credit:e Dean and Chapter of Canterbury

晩年は病と借金に苦しむ

 エドワードは、戦場では敵なしだったかもしれないが、1371年にイングランドに戻ると、その健康は急速に衰えた。

 激しい下痢に苦しみ、時々発作を起こして意識を失った。この頃には、豪勢な馬上試合を開催したり、友人たちに湯水のように贈り物を奮発したせいで、多額の借財を抱えていた。

 最後の出兵の準備をしているとき、もし自分が戦死したら、自分の財産から借金の返済をしてほしいと、父王に頼むほど首が回らなくなっていた。

 エドワード黒太子は、1376年6月8日にウェストミンスター宮殿で亡くなった。45歳だった。

 今際の際の遺言に従い、9月29日に彼はカンタベリー大聖堂で盛大に埋葬され、金属製の本人像で装飾された墓には陰鬱な碑文がつけられた。

 父王のエドワード3世は翌年に亡くなり、黒太子の10歳の息子が後を継いで、リチャード2世となった。その後、リチャード2世は、追放されていたヘンリー・ボリングブルックによって1399年に王位を追われた。

 ボリングブルックは、エドワード3世の第3子、ジョン・オブ・ゴーント(子黒太子の末弟)の息子で、のちにヘンリー4世となった。

最新の科学技術で墓を解析

 バーカーら研究チームは、破壊せずにこの像の金属組成を分析できる、持ち運び可能な機器を探していた。そして、携帯型の蛍光X線分光技術を見つけ出した。

 持ち運びができるといっても、このやり方は簡単ではなかったという。

 論文の共同執筆者、コートールド大の大学院生でもあるエミリー・ペグスによると、撮影では”アクロバティックな”作業をしなくてはならず、そのためのしっかりした足場があったことに感謝したという。

 医療現場で使われるシンプルな内視鏡を使って、黒太子の像の内部の撮影になんとか成功したという。

頭の鉄兜部分から胸や足にかけての像内部の内視鏡画像 / image credit: Waygate Technologies

本人の遺言ではなくリチャード2世の命で作られたことが判明

 分析をもとに、バーカーらはこの像は1380年代半ばに、エドワード黒太子の息子、リチャード2世の命で作られたらしいと結論を出した。

 これは、墓と像は黒太子の死後すぐに”本人の遺言どおり”に作られたという、これまでの説に反するものだ。

 像のデザインが、エドワードの父親であるイングランド王エドワード3世の像と似ていたため、バーカーらは、リチャード2世が同じ時期にふたつの像の制作を命じたと考えたのだ。
リチャード2世が、のちに自分自身と妻アン・オブ・ボヘミアの像の制作を命じたのと同じように、貴重な金属で父と祖父の像を作ることで、王位の永続性と普遍性をアピールしようとしていた可能性が高いのです
 さらに、像は細部の正確さを確実にするために、甲冑師の助けをかりて作られたのだろうという。
墓の像の甲冑には、非常に感動的なものがあります。これは、墓の上に虚しく安置されているその他大勢の単なる鎧ではなく、エドワード自身のもので、鋲の位置などの細部まで完全に再現されています


カンタベリー大聖堂エドワード黒太子の墓 / image credit:Jerrye&Roy Klotz、MD / WIKI commons
 像を作った職人たちの名は、歴史に埋もれてしまったが、それでもこの像がどのように作られたのかが明らかとなった。

 芸術的な行程や背景、職人の熟練ぶり、像の数多くのパーツがどのような順序で組み立てられたかまで、知ることができたという。

 非常に独特で革新的な像で、広く信じられている説には反するものの、中世の技巧がいかに技術的に高度なものであったかを示しているという。

 像全体をつなぎとめているボルトやピンも見つかり、それらはまるでパズルのピースのように組み合わされていたという。

References:’Fully armed in plate of war’: making the effigy of the Black Prince by The Burlington Magazine – Issuu / X-rays reveal secrets of 14th-century tomb of England’s infamous Black Prince | Ars Technica / written by konohazuku / edited by parumo

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