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5分でわかる信長包囲網!足利義昭の動きを中心に第三次までわかりやすく解説

ホンシェルジュ

天下布武を目指す織田信長にとって大きな障害となったのが、反勢力である「信長包囲網」です。この記事では、主導者とされる足利義昭の動きを中心に、第一次から第三次までの流れをわかりやすく解説していきます。

信長包囲網が構築される背景は?足利義昭の動きを中心に解説

「信長包囲網」とは、室町時代の末期に、反織田信長の軍勢が結成した連合のことをいいます。まずはそれまでの経緯を説明しましょう。

1568年9月、織田信長に奉じられて上洛を果たした足利義昭は、10月に室町幕府第15代将軍に就任しました。1565年の「永禄の変」で第13代将軍の足利義輝を殺害し、第14代の足利義栄を擁立していた三好三人衆らは、義昭の後見人になっていた信長によって京から追い出されます。

しかし1569年、織田信長が美濃に帰国した隙をついて、三好三人衆や斎藤龍興などが、仮御所である本圀寺にいた足利義昭を襲撃。「永禄の変」と同じように将軍が殺されるという悲劇が起こる危機でしたが、明智光秀らの奮闘もあり、義昭は窮地を脱することができました。ただこの出来事は、三好三人衆が十分な軍事力を有していて、復権の機会を狙っていると危機感を抱くのに十分でした。

この頃の足利義昭は、3歳年上の織田信長のことを「室町殿御父」と呼ぶなど両者の関係は良好。義昭にとって信長は、三好三人衆の脅威から自分の身を守るために欠かせない人物でした。一方の信長にとっても、将軍である義昭のもつ権威は十分に利用価値があり、彼のために二条城を建設するなど、尽力します。

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1570年、信長の上洛の命に背いたとして対立していた朝倉義景、朝倉氏を討伐する戦いの際に信長を裏切った浅井長政、三好三人衆、三好三人衆のひとり三好長逸と通じていた荒木村重、さらに石山本願寺などが、「第一次信長包囲網」を結成して挙兵します。信長は窮地に陥りましたが、この時は足利義昭に調停を依頼し、和睦が成立して戦いが収束しました。

しかしこの後、幕府の再興を目指す足利義昭と、天下布武を掲げる織田信長の意向はたびたび食い違い、両者の関係は徐々に悪くなっていきます。1569年1月、織田信長は将軍権力を制限する「殿中御掟」を出し、足利義昭に承認させます。

これは幕府法などの先例にのっとったものでしたが、信長を家臣とみなしていた義昭にとっては遺憾なもの。不満を抱いた義昭は、1571年頃から各地の有力大名に御内書を出し、信長の勢力を弱めようと共闘を促し始めるのです。ただこの時はまだ、両者が対立していたわけではありませんでした。

織田信長と足利義昭がの関係が完全に決裂するのは、1572年のこと。信長が義昭に対して、「17条の意見書」を送付。行動や生活態度を批判したのです。

義昭はこれに激怒し、ちょうど上洛を始めていた武田信玄に呼応するかたちで挙兵。これが「第二次信長包囲網」です。

戦いに敗れた足利義昭は京を追放。ただ将軍であることに変わりはなく、中国地方の大名である毛利輝元を頼り、備後の鞆(とも)を拠点に活動。信長包囲網を再構築します。これを「第三次信長包囲網」といいます。

第一次信長包囲網をわかりやすく解説!

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