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5分でわかる南下政策!ロシアの目的、影響、日英同盟などをわかりやすく解説

ホンシェルジュ

明治維新で開国した日本にとって、最大の脅威となったのがロシアによる南下政策でした。また日本だけでなく当時の世界情勢も、ロシアと、その動きを阻止したいヨーロッパ諸国という構図だったことを知っておくと、理解がしやすくなるでしょう。この記事では、ロシアの目的と南下政策の大きな流れ、影響などをわかりやすく解説していきます。

南下政策とは。ロシアはなぜ不凍港を求めたのか

 

ある国家が南方に進出しようとする政策を「南下政策」といいますが、一般的には17世紀から20世紀にかけて、ロシア帝国が領土の拡大を目指して南方へ進出したことを指します。

ロシア帝国が成立したのは、1721年。「大北方戦争」に勝利したロマノフ朝のピョートル1世が、元老院から「インペラートル」という称号を授かり、帝政が始まりました。初代皇帝となったピョートル1世は、行政改革や海軍の創設などに努め、辺境の一国に過ぎなかったロシアを、ヨーロッパの列強と肩を並べる存在にまで押し上げます。

しかしロシアは、広大な国土面積を有していながら、その大半が高緯度に位置するため、多くの港湾が冬季には凍ってしまうという弱点があったのです。政治的にも経済的にも軍事的にも、「不凍港」の獲得は必須事項でした。ピョートル1世が退位した後も、エカチェリーナ2世やニコライ1世、アレクサンドル2世、ニコライ2世など歴代の皇帝に引き継がれていきます。

その一方でヨーロッパ列強からしてみると、人口においても資源においても圧倒的な大国であるロシアが、不凍港を獲得して本格的に海洋進出することは大きな脅威です。

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そのため17世紀から20世紀にかけて、世界の歴史は、不凍港を獲得するために南下政策を遂行するロシアと、これを阻止しようとする諸外国の対立をひとつの軸にして進んでいくことになります。

 

ロシアの南下政策を時系列で紹介

 

ロシアの南下政策の舞台は、主に「バルカン半島」「中央アジア」「極東」の三方面です。

その始まりは、まだロシア帝国が成立する前の1965年におこなわれた、オスマン=トルコ帝国が支配していた黒海北部にある内海、アゾフ海への遠征です。ピョートル1世は当時23歳でしたが、自らも一砲兵下士官として従軍しました。

1696年にアゾフ要塞を陥落させて海への出口を手に入れましたが、いまだ内海のアゾフ海のみに留まる状況です。1725年にピョートル1世が病死すると、皇后のエカチェリーナが女帝として即位します。しかしわずか2年で亡くなり、次に孫のピョートル2世が即位しますが3年で亡くなるという不安定な時期が続きました。

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