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トキワ荘の紅一点 水野英子語る「24時間マンガ漬けだった日々」

女性自身

 

「『ここに女のコが住んでいたの?』と、何度、驚かれたことでしょう。私はずっとジーパンで過ごしていたから、女のコとして見られていなかったのです」

 

老朽化を理由に、1982(昭和57)年11月末、解体されたトキワ荘が、全国のマンガファンの4千筆もの署名や地元商店街の要望で蘇ったのは、2020年7月7日のことだ。元の設計図も何もない状況で、当時を知る水野さんら、かつての住人の記憶を手がかりに、40年ぶりに再現された。

 

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2階の中央に広めの廊下、その両側に四畳半の部屋が並んでいる。

 

「私の部屋は石ノ森さんの部屋の真向かいでした。自分の部屋にいても、後ろを振り返ると石ノ森さんが机に向かって描いている姿が見えるという具合でしたよ」

 

「水野英子の部屋」も、もちろんある。机上には、サジペンが置かれていた。

 

「私が使っていたのはこのサジペンです。Gペンは私の次世代の人たちが使ったのですよね」

 

くるりと部屋を見渡すと、開け放されたドアの先には、石ノ森の部屋がたしかに見える。

 

「とにかくみなさん、ドアも開けっ放し。誰でもいつでもウエルカムだった。私も、赤塚さんのお母さんに『寝るときぐらいは鍵をかけなさいね』と言われて、ああ、そうかと思ったくらいでしたね」

 

水野さんは当時18歳。懐かしそうに目を細めた。

 

「本当に贅沢な時間でした」

 

 

■貸本屋で出合った手塚治虫の『漫画大学』がバイブル。手塚の推薦でマンガ誌デビュー

 

1939(昭和14)年、水野さんは、山口県で生まれた。両親は旧満州で結婚したが、戦況の悪化で、妊娠中の母だけが帰国。故郷の下関市で水野さんを出産している。

 

「満州の高官をしていたという父の写真1葉だけが家に残っていましたが、戦後の混乱で父は帰らず、私には父の記憶はありません」

 

仕事で不在がちな母に代わって育ててくれたのは、祖母と、水野さんより12歳年上の叔父だった。

 

マンガとの出合いは、小学校2年のころ。銭湯の真向かいに貸本屋があり、学校から帰ったらすぐ、カバンを放り出してマンガを借りて帰るのが日課になった。

 

「小学校3年のときに貸本屋で借りた手塚治虫先生の『漫画大学』は衝撃でした。初心者が使いやすい画材など、マンガの描き方が懇切丁寧に説明されていたのです。掲載されていた5~6編の中編マンガもミステリ、西部劇、メルヘン、SFなど、新鮮なテーマのものばかり。悪人も単なる悪人ではなく、その人の背景や人生が深く描かれ、考えさせるものでした」

 

水野さんは、一気にマンガにのめりこむ。小学校5~6年ごろには、『漫画大学』をバイブルに、コマ割りをし、ペンを使って、本格的なマンガを描くようになっていた。

 

「家族みんな絵心があったんです。叔父は美術部でしたし、母も自治会に頼まれて、非常に綿密な紙芝居を作っていた記憶があります」

 

その母も、中学2年生のときに早世してしまい、水野さんはますますマンガに没頭。尊敬する手塚が審査員を務めていた『漫画少年』に投稿を始めた。

 

ほどなく14歳で描いた『赤い子馬』が佳作に選出される。

 

「その作品は雑誌には掲載されませんでしたが、手塚先生が気に入って、家に持ち帰ってくださっていたんです」

 

運命の歯車が回り始めていた。

 

『少女クラブ』(講談社)の編集長・丸山昭氏が、打ち合わせで手塚の仕事場を訪ねたときのこと。 仕事場の天袋に積まれた手塚の漫画原稿のなかに紛れていた『赤い子馬』に目を留めた。

 

「これは誰の作品ですか?」

 

丸山氏が尋ねると、

 

「この子、なかなか描けているから、マルさん、育ててみたら」

 

と、手塚が推してくれたのだ。

 

ほどなく丸山氏から、下関の水野さんに連絡が入った。

 

「もっと、あなたの作品を見てみたいから、送ってほしい」

 

すぐさま送った『赤っ毛子馬』が『少女クラブ』でのデビュー作。16ページの西部劇だ。

 

中学卒業後、水野さんは下関の漁網工場に就職し、魚を取る網を作り、補修する仕事についていた。昼は、40kgもの大網を抱えて階段を上り下りする重労働をこなし、帰宅後、夜半からマンガを描く生活に疲れ果て、マンガ1本に絞ることを決断。57年には初の連載『銀の花びら』が始まり、このころ丸山氏から思いがけない依頼が届く。

 

「赤塚不二夫、石ノ森章太郎と合作で、少女マンガを描きませんか」

 

水野さんは迷わず引き受けた。

 

「いまでこそ少女マンガの描き手は女性という認識ですが、当時は男性が描いていたんです」

 

女性の手による本格的な少女マンガが嘱望されていた。

 

 

■トキワ荘には赤塚の母など女性も出入りして。24時間マンガ浸りの生活は天国だった

 

水野のM、石ノ森のI、赤塚のA。3人の頭文字をとり、「うまいや」にひっかけた“U・マイア(MIA)”をペンネームに、3人の合作マンガの連載が始まった。

 

すでに、赤塚と石ノ森はトキワ荘の住人だったが、水野さんは下関。メールもFAXもない時代、この遠距離を、郵送と長距離電話のやりとりで埋めつつ、作品に仕上げていたという。

 

「丸山さんと石ノ森さん、赤塚さんが打ち合わせをし、石ノ森さんが構成とネームを担当。コマ割りとアタリ(鉛筆の下描き)を入れ下関に郵送し、私が主人公にペン入れをして送り返すという手順です」

 

まさに離れ業だ。

 

こうして生まれた『赤い火と黒かみ』は、大きな反響を呼び、1作で終わるのは惜しいという声があがる。と同時に、トキワ荘に1室、空きが出た。

 

58年3月、上京を心配する祖母を「3カ月だけ」と説き伏せ、水野さんはバッグ1つで汽車に乗り、トキワ荘の住人となった。

 

おかっぱ頭に丸眼鏡、ジーンズ姿の水野さんを出迎えたのは、色白でほっそりした青年だ。

 

「いらっしゃい。赤塚です」

 

赤塚は、水野さんの部屋を掃除しておいてくれるなど、なかなか気の利く青年だった。石ノ森は顔一面にニキビが満開。手塚治虫にあやかってか、茶色のベレー帽をかぶっていた。

 

「おふたりの作品を『漫画少年』で見ていたためか、初めて会った気がしませんでした」

 

赤塚の母親が何くれと世話をやいてくれ、炊事も担当。時間になると3人分の食事ができている。水野さんはマンガだけに専念できた。

 

「24時間マンガ浸りの生活は天国のようでした。とにかく私は描いてさえいられれば幸せですから」

 

石ノ森の姉、藤子不二雄両氏の母や姉も、付き添っていたという。トキワ荘には思いがけなく多くの女性が出入りしていて、ホッとしつつ、伸び伸びとマンガに没頭できたようだ。

 

「石ノ森さんの部屋はいつも乱雑で、ちゃぶ台もありました。石ノ森さんが机に向かい、私と赤塚さんはちゃぶ台で、顔を突き合わせて描いていました」

 

個室はあったが、四六時中、石ノ森の部屋でマンガを描いて、

 

「そろそろ休んだら?」

 

と、言われて午前2時ごろ部屋に引き揚げる。銭湯へ行くのも3人一緒。いつも先に出た2人が、水野さんを待っていてくれた。

 

気がつくと、トキワ荘の滞在期間は祖母との約束を大幅に過ぎて、7カ月に及んでいた。水野さんは仕方なく一度、故郷に戻ったが、早々に祖母を説き伏せて再上京。しかしトキワ荘に入りたい者は列を作って待っていたため、すでに空室はなく、荘に真っすぐ向かいの目白通りの下宿に住んだ。

 

「トキワ荘で勉強になったことは数えきれません。私たちは、動かない絵で、映画と同じように、物語をいかにドラマチックに表現しようかと日夜考えていました。石ノ森さんは、左右2ページにわたる見開き画面いっぱいに、バーンと見せ場を描いたり、コマを斜めにスパッと切り取ったりと、画面にリズムをもたせる手法を使い始め、目を奪われたものです。あの7カ月で、自分の画力が飛躍的に向上したのが実感できました」

 

トキワ荘で得たものは数知れず。その後続く長い作家人生では『白いトロイカ』『ファイヤー!』などヒット作を連発し、いまなお描きたいテーマは湯水のように湧いてくる。

 

「クラシック音楽をテーマに据えた作品は描きたかったですね。私には、音楽を感じさせる絵を描く自信がある。読者が、どんな音楽か想像するほうが、音が飛躍して、きっと面白いはずです。私じゃなければ描けません」

 

ひとつとして同じ音楽を作らない吟遊詩人が主人公。同じ気概が水野さんのなかで燃え盛る――。

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