その後、堤はアクションスターを目指して、京都の養成所へ通った。選抜クラスに選ばれ、京都から東京の養成所へ行くことになる。その時期、父は肺がんで入院しており、堤は父の病室を訪れた。
たいした話もできず、立ち去ろうとする堤に、父は声を振り絞って、「真一!」と叫び、ポツリと「元気でな……」と声をかけた。
堤は「『ああ、この人は死ぬことを(自分で)知ってる』と思うと振り返れなかった。そのまま病室を出て号泣した。もう会うことはないんだって」と振り返った。
広告の後にも続きます
父は1984年に60歳で亡くなった。今回の番組の取材で、父が写した大量の写真が見つかった。
堤が生まれた日の写真、堤を初めて家に迎え入れた日の写真、時節ごとの家族の集合写真などがあった。そこには、父が狭い団地の家を、家族とともに大切にしていた様子が刻まれていた。
寡黙な父の不器用な実直さと家族愛を感じた堤は「(父は)無口だから、ずっと(自分は)愛されてないって思ってた」と大粒の涙。「俺のこと嫌いなんだろうなって。生意気だったし。それが……ほんとバカですね」と悔やんでいた。
堤と父の関係にSNSでは大きな反響が寄せられた。
《寡黙な父親と生意気な思春期の息子。 父親への一方的な誤解が今初めてほどけ、 号泣されてる堤さんに、 こちらも涙なしには見れなかった》
《ファミリーヒストリー、途中から観たけど、なんだか色々重なって号泣したわ》
《堤真一のファミリーヒストリーで久しぶりに泣いた。ココロが洗われた。寡黙に生きたい》
「同番組で、堤さんのお父さんは、学校の先生から東大受験をすすめられ、外交官になる夢があったものの、家庭の事情や戦争という時代に翻弄され、工場勤めをするしかなかったことが判明。
それでも父は、51歳で通信制大学で学び、税理士を目指したものの、道半ばで天国に旅立ったそう。堤さんは『全然知らなかった』と驚いていました」(芸能ライター)
寡黙な父の名前は「静雄」、堤の名前「真一」は「真実一路」から取られたことも明かされた。