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五感の記憶まで全て失ったら世界はどう映るのか『記憶喪失になったぼくが見た世界』

ホンシェルジュ

坪倉さんは、同情や憐れみの目が一番嫌いだった、と書いていた。人と会うとみんな自分を見て「かわいそうだ」と悲しい顔をする。そしてその場の空気が重くなる。それが嫌だった。だからよく家を抜け出して誰もいない場所へ行き「生き返らなければよかった」と悩む。

しかしある日、また逃げ出したい一心で家を出て行こうとするところを見つけられ、お母さんに引き止められる。そしてお母さんが「どうして家から出ていきたいの」と涙を流す。その様子を坪倉さんは

口は力を込めて閉じているのに、目から何かが、止まることなく流れている。それを見ると、急に息ができなくて胸が苦しくなった。それは見たくない顔だ。ぼくがこんなことするからこうなるのだ。もうやめよう、もうやめなくてはいけない。

坪倉 優介. 記憶喪失になったぼくが見た世界 (朝日文庫) (Japanese Edition) (Kindle の位置No.983-985). 朝日新聞出版. Kindle 版. 

と理解する。それまでは「気になるものがあったから電車を降りて追いかける」とか、「逃げたいから逃げる」というような「自分がこう思うからこう行動する」という自分の願望に則っただけの内容だったのが、ここから「この人を悲しませてはいけない」というような、他人を思いやる心のもとで思考し、独白するようになっていく。

これ以降、彼は昔の手紙を見て「この頃の気持ちを知りたい」と思うようになったり、やり方を忘れてしまった「絵」を頭で考えてやってみたり、昔の髪型に戻して記憶を取り戻そうとしてみたり、周りに合わせて社会的な行動を取ったりと、自分で考えて工夫して行動するようになっていく。

そして、最終的には彼は絵以外の新しい世界に触れ、才能を開花させるようになる。それが今の坪倉さんの職業である「草木染作家」につながっていくのである。

現実は100%のハッピーエンドではない

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記憶を失い、五感の情報すらも失った大学生が、周りの手を借りながら世界と触れ、(十全にとはいかないまでも)それまでと同じような生活に戻り、幸せに生きていく。流れだけをなぞると、ノンフィクションの感動モノに感じる。しかし、感動だけでは終わらないところに現実の怖さというか凄みがある。

坪倉さんは、恐怖を抱いている。それは「元の記憶が戻ること」である。坪倉さんは「記憶が戻ることが怖い。今いる自分がいなくなってしまうのが怖い」と言う。坪倉さんは記憶を失ってから長い時間をかけて「全部が新しい世界」「何も知らない自分」と戦ってきた。けれどこれから彼は、「過去の自分に今の自分が消される恐怖」と戦わなければいけない。

もしも昔の記憶が戻ったらどうなるのか。今の彼は死に、昔の彼が蘇るのか。あるいは2つは統合され、新たな坪倉優介という人格になるのか。

それは誰にもわからない。だから彼は恐怖し、悩み、戦っている。手放しで喜べないこの焦燥感が、現実の恐ろしさを物語っている。そしてその恐怖を抱いたまま、この本は終わる。

『記憶喪失になったぼくが見た世界』は、記憶を失った坪倉さんの独白と、お母さんの独白、2種類の独白を軸に構成されている。坪倉さんの独白は、やはりはじめはたどたどしい。ほとんどひらがなで構成されているし、話の進め方もどこか子供っぽい。だが後半になってくると、僕たちと同じように文章を書き、思考しているのがわかる。この変化に、人間の希望というか、力強さを感じる。

しかし、深く思考できるようになったからこそ、「昔の自分の記憶」という恐怖も同時に得ることになってしまった。得た希望がそのまま恐怖につながってしまうような人間のその歪さにはやはり不安を感じる。だからこそ人間は慈しむべき生き物なのかもしれないけど。

最後に好きな部分をあげておく。坪倉さんが、はじめてジュースを飲んだ時の頭の中が、光に照らされていて好きだ。こういう感じ方で生きていきたいな、と思う。

ぼくも箱(自販機)の小さなとびらをあけて、とり出してみると、ちがう色の水だった。ぱちぱちと小さいアワを出している。これものめるのかと聞くと、すかっとさわやかになるぞと言う。それを口の中に入れて、のみこむと、ノドがいたい。でもおいしかった。これがジュースというものなのか。大きなハコも、色がついた水も、ぼくと同じ人間が作ったのかと聞くと、そうだと言う。人間というのは、かなりすごいのではないか。

坪倉 優介. 記憶喪失になったぼくが見た世界 (朝日文庫) (Japanese Edition) (Kindle の位置No.562-566). 朝日新聞出版. Kindle 版. 

 

記憶喪失になったぼくが見た世界 (朝日文庫)
著者坪倉優介 出版日
  • 1
  • 2

2021年10月20日

提供元:ホンシェルジュ

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