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車いすマラソン発展の礎を築いたパイオニアが、今思うこと

パラサポWEB

東京2020大会の開催が決まった2013年以降、パラアスリートを取り巻く環境は大きく変わった。では、世界への道を切り開いてきた日本の先人たちは、いかにして世界と戦ってきたのか。日本の車いすマラソン界をけん引してきた山本行文さんに聞いた。

ニューヨーク・アイレスベリー、ソウル、バルセロナと3大会連続でパラリンピックに出場。世界最大級の車いすマラソンレースである大分国際車いすマラソンも国内7連覇と、日本の車いすマラソン界をけん引してきた。試行錯誤しながら山本が開拓してきた道とは――?

レーサーも練習法も一から開発

子どものころからスポーツが得意。陸上や柔道、卓球、器械体操に親しみ、中学・高校ではバレーボール部で活躍したという山本行文は、高校卒業と同時に地元・熊本で自衛隊に入隊した。しかし、1977年22歳のとき、事故で脊髄を損傷して両下肢機能全廃となる。車いすとなり、リハビリを兼ねて車いすバスケットボールをプレーしていた山本が、車いすマラソンに出会うのは、1981年のことだ。

山本行文(以下、山本) 大分にある自衛隊別府病院に入院中の1981年、第1回大分国際車いすマラソンが行われました。地元なので、大きな話題になっていましたよ。僕はテレビで観戦したのですが、僕と同じ境遇の人たちが競い合っている姿を見て、励まされました。その中に一緒に車いすバスケをしていた選手がいて、大分県で1位になったんです。これには大いに刺激を受けました。よし、僕だって、とがぜんやる気になり、翌年の第2回大会に挑もうと決めました。

1992年の大分国際車いすマラソン(写真は本人提供)

その大会で日本の選手たちが使っていた車いすは、日常用やバスケットボール用を少し改良したタイプだったという。ところが、海外の選手たちは、すでに車いすマラソン専用の車いすを使用していた。そのスピード感と見た目のカッコよさに引かれるとともに、自分も速く走りたいと思った山本は、地元の企業と協力し、日常用車いすをアレンジしたオリジナルのマラソン専用車を作る。

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山本 全体をステンレス製にして重量を軽くするのと同時に、ハンドリムを小さくしてギア比を応用しました。さらに車体が安定するよう前輪の位置を前の方に出しました。それでもバランスがとりづらく、スピードが出ると前輪(キャスター)がカタカタカタって音がして、車体がぶれていましたね。

同時に、練習方法も試行錯誤しながら編み出していった。

環境を言い訳にせず、ベストを目指して工夫と努力を重ねた

山本 平日は病院の外には出られなかったため、病院の建物の周りをぐるぐると回ることにしました。ところが、別府は坂の町。距離はせいぜい700mほどだったのですが、その中にもアップダウンや曲がり角がいっぱいあり、どう考えてもマラソンの練習には不向きなルートでした。しかも、競技用車いすが完成したのは第2回大会の直前だったので、練習は日常用を使うしかありませんでした。だからといって、一度やると決めた挑戦をあきらめるわけにはいきません。この練習環境でできることは何か。考えた結果、まずは持久力をつけようと、車いすで古タイヤを引っ張って走ることにしました。

何周も何周も日常車で古タイヤを引くうちに、手が豆だらけになったので、テーピングを巻き手袋を着け、さらにその上からテーピングを巻いて、引っ張っているタイヤも摩擦ですり減り、4回取り替えました。

タイヤ引きのトレーニング(写真は本人提供)

車いすルームランナーを発明

練習の末、出場した第2回大会では、国内2位、総合9位。山本いわく、海外選手との差は歴然としていたという。その差がどこにあるかを探るため、海外の選手たちと情報交換をしたところ、重要な気づきを得る。

山本 海外では、ちょっと郊外に行けば、幅が広く交通量も少ない道路があり、大会と似たような環境で実戦練習が積めるとのことでした。坂道だらけで道路幅が狭く、交通量も多い別府で練習していては、海外の選手たちに追いつけないばかりか、日本一にもなれない。そう確信しました。でも、環境は変えられません。では、どうしたらいいのだろうか。そう考えて、ふと浮かんだのが、ランニング用のルームランナーです。そうか、車いす用のルームランナーを作ればいいんだ、とひらめいたときは、うれしかったですね。天候や道路事情などに左右されず、いつでも好きなだけ練習できるわけですから。

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