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陸上 走り幅跳び・中西麻耶。信用される絶対女王、4度目のパラリンピックへ

パラサポWEB

――実際、大阪では新しい出会いはありましたか?

たまに練習で使わせてもらっている枚方市の競技場があるんですけど、そこは市長から直接激励してもらって、今回、東京大会出場っていう懸垂幕も市役所に飾ってもらったりもしています。最初、伊丹市に引っ越した時も、市長に挨拶に行った時にはたくさんの陸上関係者や体育協会の方々をご紹介していただいたりして、こういう河川敷があるけど練習場所にどうかな、とか、いろんなアドバイスをいただきました。

――中西選手は東京大会の延期が決まったあとも、2020年の夏に向けてピーキングしていくという当初の予定はブラさずに、実際に2020年9月の日本選手権では5m70で自身がもつアジア記録を更新しました。これまで話してきたように、精神的にも肉体的にも難しい2020年だったと思いますが、この結果はどれくらい自分を後押しするものになりましたか。

もちろん延期にはなったけど、それによって目標が失われたわけではなかったので、当初やろうとしていたことが正解なのかどうかを、まずはやり通して確認したかったって思っていて。去年の日本選手権での記録もすごく良かったと思っているし、自信をもって挑んだ大会で結果も出ました。無観客だったけど雰囲気も良かったし、こういう場面で力をちゃんと発揮できたというのは2019年の世界選手権で金メダルをとったことで、自分がひとつ成長した証なのかなって感じましたね。

――いよいよ長年目標にしていた「6m超え」も見えてきたんじゃないですか?

そこの目標はこの競技を始めてからずっとブレていません。去年9月に記録を出して、さらに2021年に向けて一段階強度を上げて取り組めるわけですから、ピーキングの流れもコツも去年と同じような感じですけど、強度が明らかに変わっているのは実感できています。

以前は「遠いなあ」って
ずっと思っていたんですけど、
最近は「もうすぐそこじゃん」って感じで。
「6m」を現実のものとして見ている
自分がいるんです。

――改めて中西選手にとっての「6m」という数字、競技人生においてこの目標とどう向き合ってきたのかを教えてもらえますか?

20代前半の時にこの数字を目標に掲げたんですけど、当時はほとんど誰からも相手にされませんでした。私は21歳の時に事故に遭って陸上に転向したんですけど、母校の中学にも高校にも陸上部がなくて、陸上に関して頼る人や恩師と呼べる人が誰一人いませんでした。
たまに心が折れて高校の恩師のところへ相談に行ったりしたんですけど、ソフトテニス目線のアドバイスでまったくしっくりこないんですよ(笑)。それでずっと一人でもがきながら取り組んできたので、もともと陸上をやってた子とかと会うとすごく羨ましい気持ちになっちゃって。でもね、結果が出なくてもずっと続けて30歳も過ぎてきた頃になると、だんだん応援してくれる人、安心できるスタッフがまわりに増えてきたんです。そうしたら自分の負担が減って、競技にかけられる時間が増えていって。

――長く期待を受けながらもなかなか結果が出ず、もがき苦しみながら、それでも前に進もうとする姿は多くのスポーツファンが目にしてきた光景でもあります。

20代の頃は企業に営業に行っても「パラリンピック? 何よそれ」って感じでしたからね(笑)。今でもこの状況を20代で手に入れることができていたら、もっと早く6mに手が届いたんじゃないかって思うこともあるけど、でも、陸上を始めてからこれだけは自分の中で手放したくないって気持ちがどんどん強くなっていくんですよ。継続してこの年齢までやってこられたこと、その自信があれば、諦めなければ必ず6mを跳べるんだっていうのはどんどん実感として強くなってきています。

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――それこそ2年前、5m70の記録を出したあとで、中西選手の口から「6mってこんなもんなのか」という発言があって、いよいよ現実的に手が届く距離にあるという確信に変わった瞬間でもあるのかなって。

荒川コーチと一緒に練習する時、いつも6mのところに印をつけてくれるんです。以前はそれを見て「遠いなあ」ってずっと思っていたんですけど、最近は「もうすぐそこじゃん」って感じで。「6m」を現実のものとして見ている自分がいるんです。

――世界選手権直後には、「そろそろみんなに信用してもらえるアスリートになりたい」という発言もされていて、この言葉の真意をずっと伺ってみたいなと思っていたんです。「信用してもらえるアスリート」って、すごく強い言葉ですよね。

アハハ、私、自分の思ってることを素直に吐き出しすぎるから、いつもいろんなところからバッシングを受けるんだろうなって思います(笑)。私が障がい者になったばかりの頃って、障がい者は立場が弱くて、座っていればなんでも手に入れられてって、まだそんな感じの雰囲気がすごく残っていて。それがすごくイヤだった。
だってお母さんが介護してくれていたとしても、お母さんが死んだらその先は自分自身で生きていかなきゃいけないし、男だろうが女だろうが、自分で生きていく力は養っていかないといけないんじゃないかって、ずっと感じていたんです。
そういうこともあって、性格的にもすごくキツかったから(笑)、どんなに記録を出しても「エントリー数が少ない」とか、「日本記録は世界記録と比べれば大したことない」とか、そんな嫌味を言われることもすごく多かったんです。

――なかなか素直に受け入れてもらえなかった、と。

そのぶん期待も受けていたんですけど、私自身、大事なところでいまいち勝ちきれていないこともあって、ずっと「6m跳びたい」「金メダルとります!」って言いながら、跳べず、とれずで終わってしまうことが続いていました。
自分はどこかで成功よりも失敗を期待されているんじゃないかって感じるような時期もあって……それで世界選手権でやっと金メダルをとって、一番高い表彰台に立った時に、もうそろそろ「日本と言えば中西麻耶」って思われるような、「うちには中西がおるんじゃ!」って強く送り出してもらえる選手にならなきゃって。それでああいうことを言ったんだと(笑)。東京大会はみんなに応援してもらえる、中西なら何かをやってくれるって、そういう信頼感を得られたんじゃないかなって。

――中西選手にとって、メダルを取ることと記録を更新することの違いってありますか?

メダルをとることはみなさんのためにしたいこと、記録を破るのは自分のためにしたいことですね。

――「絶対女王」として、東京大会で新しい歴史を切り拓いてくれることを期待しています。

2日前の兵庫選手権は、久々に健常者と同じ記録会だったんです。いつも健常者の記録会に立つと、どこか「私は私のカテゴリで頑張らせていただきます」って感じで彼らの記録とは区別しちゃうところがあったんですけど、今回は同じフィールドにしっかり立てていました。負ける気がしなかったんですよ、本気で勝ちにいってたんで。最終リザルトは及ばなかったんですけど、やってきたことに対してすごく自信をもっているんだと改めて感じることができました。東京大会も勝ちにいきます!

中西 麻耶 | Maya NAKANISHI
1985年生まれ。陸上競技・走り幅跳びT64クラス(片下腿義足)。学生時代は大分県内でソフトテニスに明け暮れ、21歳の時に仕事中の事故により右足を切断。ソフトテニスのトレーニングのために取り入れたランニングでパラ陸上に目覚め、初めて出場した日本選手権では100m、200mそれぞれで、当時の日本記録を更新。23歳の時に北京パラリンピックに2種目で出場。以降、ロンドン大会(走り幅跳び)、リオ大会(走り幅跳び/100m)に連続出場。2019年、世界パラ陸上競技選手権大会で自身初となる金メダルを獲得し、東京大会の日本代表に内定。2020年9月の日本パラ陸上選手権ではアジア記録を更新する5m70をマークし、6m超えの跳躍に期待が集まる。阪急交通社所属。

interview by Senichi Zoshigaya
photo by Mika Ninagawa

※本記事は写真家・映画監督の蜷川実花氏がクリエイティヴ・ディレクションするパラスポーツと未来を突き動かすグラフィックマガジン『GO Journal』(ゴー・ジャーナル)の最新号ISSUE05掲載コラムを元に制作しています。

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