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陸上 走り幅跳び・中西麻耶。信用される絶対女王、4度目のパラリンピックへ

パラサポWEB

現実としての6メートル
信用される絶対女王、4度目のパラリンピックへ

中西麻耶陸上競技人生は、思えばいつも逆風にさらされることの連続だった。キャリアをスタートさせてわずか1年足らずで北京パラリンピックに出場。日本のパラ陸上界を背負って立つ逸材として、その将来を嘱望された。

その後、パラアスリートがまだ海外に拠点を移すことが珍しかった時代に単身渡米。海外コーチをつけての活動は周囲から理解されなかった。資金難にも苦しんだ。それでも出場を勝ち取った2012年のロンドン大会、2016年のリオ大会。勝ち気な性格とは裏腹に、結果を残すことはできなかった。引退を考えたことは一度や二度ではない。それでもなぜか陸上を諦めきれなかった。2019年、世界選手権で初めて手にした悲願の金メダル。

そして去年、35歳にしてアジア記録を更新した。不屈、そう形容するほかない。それでもまだ道の途中。陸上を始めた時に口にした「6m」が今、すぐそこにある。

何度も陸上をやめたいなあと
思ったことがあったけど、それでも自分なりに
工夫をしながらやってきて、
それがまたこういう場面で活かされて……
なんか自分の人生を
振り返るきっかけにもなったんですよ。

――7月11日の陸上・兵庫選手権では5m46の跳躍を記録して優勝、東京大会に向けた調整も順調なようです。

調子はずっと悪くはなくて、ただ欲を言えばもっとこうだったら、ああだったらよかったなってことが自分の技術的なところに対しても、義足に対してもあって。今回は義足の調整に苦労していて、とても難しい、本当に細かい調整を今もしているところなんですけど……でも、トレーニング自体はすごくうまくいっています。

――いろんなことを経ての東京大会が目前に迫っているわけですが、2020年から現在までの1年半という時間をどう感じて過ごしてきましたか?

私は考えが昭和の人間というか、これだけSNSやLINEのようなアプリが充実していて、すぐに誰とでもコミュニケーションがとれる時代にもかかわらず、手書きの手紙を送ったり渡したりするほうが好きなタイプの人間で(笑)。だから、コロナ禍になって「人と会えなくて辛い!」って声がたくさん聞こえてくる世の中になって、対面で会うことの大切さ、人と人とのふれあいの大切さみたいなものを改めて感じるきっかけになったというか。そうやってもっとみんなの心が穏やかになっていってくれたらいいなって、とくに最初のほうは思っていましたね。

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――オンラインでのビデオ会議ツールなどが普及した一方で、フィジカルなレベルでのコミュニケーションが減った社会が当たり前になったことで、アスリートにとってもいろんな変化があったと思います。

私の場合は、心理カウンセリングのコーチはもともと離れたところに住んでいたので、遠隔でのコーチングでした。ただ、トレーナーはどうしても対面で会うことができなかったので、怪我を負うリスクを考慮しながら練習メニューを組み立てていって、練習の質は落とさないように注意しながら、今はセルフケアで間に合うくらいの疲労感が残る練習内容にはなっていますね。
あとは、コロナ以前は頻繁に義足の調整に行っていたんですけど、緊急事態宣言が出ているあいだはやっぱり直接会って調整してもらうことも難しかったので、義肢装具士の方と話す時間は増えました。限られた時間の中で凝縮した内容の会話をしなければならなかったというか。
一方で海外の選手たちは日本よりもロックダウンが早かったり、規制も厳しかったりして、法的に「夢を追うのをやめなさい」って言われているような、すごく酷な状況だったと思うんです。それですごく心配になって、連絡をとったりしてみたんですけど、みんなすごく前向きにやっているというか。こんな思いで1年間、辛抱して準備している選手たちがいるんだから、日本は受け入れる立場として、何をどう準備できるんだろうっていうことは、友だちともよく話しながら考えていましたね。

――先がわからない状況の中で、それでも環境に順応しながら日々トレーニングをこなすのは簡単な作業ではないですよね。

今までいろんな経験をしてきて、何度も陸上をやめたいなあと思ったことがあったけど、それでも自分なりに工夫をしながらやってきて、それがまたこういう場面で活かされて……なんか自分の人生を振り返るきっかけにもなったんですよ。だって、これまではずっと遠征続きで、こんなに自分の家にいる時間が長いのも、人生でどれくらいあったのかなあって思うし。アスリートとしての自分と、一人の人間としての自分と、その切り替えがしやすくて、コロナ禍になってむしろすごく余裕が生まれたんです。

――焦りや不安ではなく、余裕。

自分のこれまでの競技人生を振り返っても、競技場のスケジュールに沿って練習メニューを考えて、トレーナーやカウンセリングコート、スタッフのスケジュールをすべて把握したうえで、誰がいつ空いていて、何時から練習するとかすべて自分で決めなければならなかったし、それにこういった取材の調整とか挨拶まわり……あとは家にワンちゃんを飼っているので、遠征に行くあいだはどこかに預けなきゃとか……そんな生活を送っていると、部屋中に何個もトランクケースが並んじゃって、家のベッドで寝ることだって年に数回しかないような日々だったんです。だから、今みたいに家で料理する時間なんてありえなかった。

でもね、どんなに考えても考えても、
最後は勝つしかないんですよ。
私はいい人生を送っているんだっていう姿を、みんなに見せるしかないんです。

――中西選手はコロナ禍になってから、それまで長く拠点にしていた大分県を離れて大阪に移られました。アスリートにとって生活環境を変えることはストレスや負荷のかかることで、ましてや東京大会の前年に決断するっていうのはとても勇気のいることだったと思います。

ほんっとうにたいへんでしたよ(笑)。1回目の緊急事態宣言の直前に大阪に引っ越して、そのあとすぐ大分にいた知り合いや親族が立て続けに亡くなってしまったんですけど、どこか泣きに行く場所もなければ、話を聞いてもらえる友人も近くにいない。ただ家の中で過ごさないといけないし、生活の基盤をつくるのに必死でなんとか誤魔化していたんですけど、流石にこれはヤバいなあって思う時もありました。
それにたとえパラリンピックが無事に開催されたとしても、まだまだ新型コロナウイルスと正しい付き合い方を探っていかないといけないだろうし、それまでは実家のある大分に戻るのは難しいだろうなって。今でもただただ早く地元に帰れる日が来ればいいのにって思いますよ。

――過去にはアメリカでの生活も経験されていて、それこそ遠征で海外を飛び回ることも多く、環境への適応という意味では十分に経験があると思いますが、今回の移住は必ずしもポジティブなものではなかったかもしれません。過去の経験と違う難しさは感じていますか?

やっぱり今まではみんなに心から「頑張ってきてね!」って見送られて、自分を奮い立たせて、そしてまた胸を張って帰ってくる、という感じで出発することが多かったですからね。今回の移住はそもそも急だったし、大分に一緒に住む高齢の家族を守るためのやむをえない決断だったので、少なからずショックだったり、家族にとって自分は重荷になってるんじゃないかとか、そういうことを感じながら出てこなければならなかったので。ずっと大分で地元と一緒に世界を目指すということで頑張ってきたので、お世話になったみんなになんの感謝も伝えられないまま出ていくことは、どこか裏切ってしまったような気持ちにもなりました。
でもね、どんなに考えても考えても、最後は勝つしかないんですよ。私はいい人生を送っているんだっていう姿を、みんなに見せるしかないんです。

――今でも「早く地元に帰れたら」という思いがあるということでしたが、それでも大阪に移ってから新しい目標を立てて、練習に集中していく必要がありましたよね?

やっぱり結局、誰にアドバイスをもらおうが、誰に相談しようが、最後に決断するのは自分で、決断した以上はたとえどんな理由があったとしても、その判断に責任をもってやるしかないんですよ。その覚悟はもちろん大分を離れる時にももっていたものだし、あとはその土地、その土地でしか会えない人が必ずいるので、その出会いを大事にすればきっとまた何かいいことがあるはずだって思いながら切り替えていったところはあります。
あとは、さっきも話したように、海外の選手に比べれば自分は練習の機会自体を奪われたわけではなかったので、その海外の友だちたちのぶんも頑張ろうって、練習の際にはいつも噛み締めながらやってましたね。

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