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パラスポーツを支える「つくりびと」、義肢装具士・臼井二美男の人生を変えた義足

パラサポWEB

パラスポーツの“今”をお届けするスペシャルムック『パラリンピックジャンプ』のVOL.5発刊を記念して、過去に本誌で取り上げたパラスポーツを支える人たちのストーリーをパラサポWEB特別版(全4回)でお届けします。

第1回は、パラアスリートが最高のパフォーマンスを発揮するために欠かせない義足作りを通して、選手を支える義肢装具士・臼井二美男氏の物語。昨年、厚生労働省が卓越した技能をもつその道の第一人者を表彰する「現代の名工」にも選ばれた氏がパラアスリートと歩んできた日々に迫る。

※この記事は『パラリンピックジャンプ』に収録されたマンガ『職人つくりびと』〜パラスポーツを支える人やモノ〜、#4義肢装具士編の原作を元に制作しました。

プロローグ

進学で群馬から上京したが、別に何かを勉強したいわけじゃない。
大学に行く意味を見出せず、退学してフリーターに。
特にやりたいことなんかないが、きっといつか見つかるはず。
それでも職を転々として食いつなぐ日々で、気がつけば30歳手前。
今も昔もよくいる若者の一人だったかもしれない。

……でも、人生はいくらだって変えることができるんだ。

義肢装具士としての駆け出し

中年の患者「こんな義足、痛くって履けねぇよ!」

臼井二美男の前で、臼井の作った義足は床に投げつけられた。
30歳を目前に義肢装具士を志したが、その理由はいたってシンプル。結婚するために正社員になるのと、小学校の時の先生が義足を履いていたことを思い出したからだ。

義肢装具士とは、事故や病気で手足を失った人のために義肢と呼ばれる義手や義足を作る職業だ。いわば、人の身体の一部になるものを作る仕事。身体の一部になるものが痛かったら、そりゃ短気なおじさんなら怒って投げつける。

臼井は未経験で東京身体障害者福祉センター(現在の鉄道弘済会義肢装具サポートセンター)に入社し、一生懸命働いて仕事を覚えようとした。人が嫌がることでも率先してこなした。早く一人前になりたかったから。

でもそう簡単に一人前になんてなれない。なぜなら義肢はすべてオーダーメイドだからだ。

例えば、脚を切断した場合、残った脚の長さは人によって違うし、その人の体格も違えば脚の太さも違う。さらに、きついフィット感が好きな人もいれば、余裕があって緩いフィット感が好きな人もいる。

そのため一人ひとりに合った義足を作る必要があるが、それが難しい。職人的な感覚や技術も必要だが、何より患者の心に寄り添うことが重要だった。その人が何を求めているか、じっくりコミュニケーションを取って聞き出した。義足の話だけではなく、関係ない話もいっぱいした。

ちなみに、投げつけられた義足は臼井が再調整して、患者の家に行って謝りながら届けた。

さらにコミュニケーションを取ってその患者にとって理想の義足に近づけていく。
そうやって患者と義肢装具士の信頼関係は生まれていくのだ。

ハワイで受けた衝撃

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入社から5年ほど経った頃、臼井は新婚旅行でハワイを訪れた。
義肢装具士として経験を積んできている臼井は、せっかくだからと現地の義肢製作所を見たいと思った。現地の電話帳で義肢製作所を探し、電話をかけてみた。もちろん英語はろくに話せない。

臼井「ハロー、アイアムジャパニーズテクニシャン。ハネムーンでハワイに来てるんだけど、見学させてもらえませんか?」

片言の英語で何とか通じて訪れるとそこは小さな製作所。

技士「君はこれを見たことないだろう?」

手に持って見せてきたのは、義足の足部だった。

臼井「あひるの脚みたいだ」
技士「これはカーボン製で丈夫で長持ちするんだよ。生活用ではあるけど、走ったり、テニスしたり、野球もできるんだよ!」
臼井「え!!これで!?」

臼井は本当に驚いた。
それまでは主に木で足部を作っていたが、動きによっては折れて壊れてしまっていた。木はたわまないので反発がほとんどない。歩くことはできるが、少しでも運動しようとするものならすごく疲れる上に、壊れる危険もはらんでいる。もし義足が壊れてしまえば、会社や学校に行くことができなく、日常生活に支障をきたすことになる。そのため、当時の日本には義足で思い切ってスポーツをしようとする人なんていなかった。そんな常識が頭にあった臼井にとって、初めて『走る義足』を意識した瞬間だった。

木製の足部 ハワイで見たカーボン足部

帰国後、臼井はカーボン製の足部に思いを募らせた。

臼井「(体重をかけてもカーボンなら壊れないし、逆に反発するからエネルギー効率がいい。あの足部があれば走ることができずはずだ……)」

そこで会社にお願いをして研究費で2個購入してもらうことができた。ちなみに当時で足部1個が25万円。翌年さらに会社からパーツを買ってもらい、義足を履く若い女の子に声をかけ、実際に走らせることに。

危険がないように臼井も伴走したが、意外とあっさり走れた。しかし次の瞬間、

女の子「臼井さん、私、走れたよぉぉぉ……!!」

女の子の目から大粒の涙が流れた。
次は男の子を走らせた。やはり走ることができた。そしてまたうれし涙を流した。脚を失って二度と走れないと思っていた人が、走る喜びを取り戻した瞬間だった。

臼井「(義足で走ることは、ただ走るということ以上の意味があるのかもしれない)」

そして、臼井は義足で走るランニングクラブを作るのである。

ある若者との出会い

臼井がランニングクラブを作り、活動をしてから数年が経った頃、18歳の若者が鉄道弘済会を訪れた。

鈴木徹だ。ハンドボールの強豪校でプレーし、山梨県代表として国体に出場して3位に入る活躍を見せた。その後、筑波大学への進学が推薦で決まり入学まであと1か月というタイミングで自動車事故に遭い、右脚を切断。脚を失ったショックは当然あったが、それ以上に鈴木の心には強い思いが渦巻いていた。

鈴木「(脚は失ったけど、スポーツがしたい)」

事故後、地元の山梨県で入院していた鈴木は病院で医師にスポーツを続けたい旨を相談する。すると医師は小さな冊子を鈴木に渡した。

医師「東京の臼井さんという人がスポーツ義足をやっているみたいだよ」

鈴木が受け取った冊子は臼井が作ったスポーツ義足を紹介するものだった。

後日、その情報をもとに鉄道弘済会にたどり着いた鈴木だったが、臼井の顔は知らなかった。

鈴木「(臼井さんってどの人だろう?)」

臼井を探す鈴木だったが、若い技士と義足作りについて相談をしている後ろに髪の毛がボサボサの技士が立ってそのやりとりを見ていた。

鈴木「(誰だろう?なんか変なおじさんがいるなぁ……)」

その日はそれで鉄道弘済会でのやりとりは終わり、後日訪れたときは若い技士ではなく、その髪の毛ボサボサの技士が鈴木に対応した。

臼井「僕が君を担当するからよろしくね」

こうして始まった2人の義足作りだが、臼井はあえて冷静に一歩引いた態度で臨んだ。
脚の傷が治っていない鈴木の場合はせいぜい午前と午後で20分ずつ程度しかリハビリができなかった。

鈴木「(くそっ……、なんでこれしかできないんだ……)」

鈴木はとにかく体を動かしたかった。それをやれない現実に悔しくやりきれない思いを常に持っていたため、臼井がそれをなだめてストップさせる必要があったのだ。
臼井の対応もあり、鈴木の傷は回復に向かい、リハビリも進んできた。
そして3か月のリハビリ入院の後、鈴木は初めて運動用の義足を履いた。

鈴木「(あれ?なんだこの硬い感じ……。松葉杖がないとぜんぜん歩くのも大変だ……)」

とても自分の脚とは思えない感覚に鈴木は愕然とした。義足を履けるようになればすぐ運動できるようになれると思っていたが、大きな壁にぶつかった。だが、すぐに前を向く。

鈴木「(オレはもう一度ハンドボールをやるんだ!)」

さらにトレーニングに打ちこみ、臼井もそれを見守り、その思いに応えて義足を調整していった。

新たな挑戦

事故から一年が経ち、大学を休学していた鈴木は4月から復学することが決まった。
この1年でリハビリ、トレーニングをして義足で走れるようになっていて、縁あって中央大学のグランドでタイムを計測することになった。

よーい、スタート! 計測してみると100mを走るのに20秒もかかってしまった。

鈴木「(これじゃとてもハンドボールなんてできない……。頑張ってきたけどこれしか走れないのか……)」

落胆する鈴木の目に走り高跳び用のマットが入ってきた。

鈴木「(そういえば中学校の頃、走り高跳びやったなぁ……)すいません、ちょっと走り高跳びもやってみてもいいですか??」

思い付きで始めたところ、ジャンプする爽快感が楽しかった。
そして小一時間もしないうちに165cmをクリアした。

鈴木「くそ!中三のときは176cmくらいは跳んだのに!!」
臼井「いやいや、鈴木君、日本記録は150cmくらいだよ」
鈴木「へ?そうなんですか??」

あっさりと大幅に当時の日本記録を超えてしまった鈴木に、臼井は確信した。

臼井「(やっぱり鈴木君には陸上が合うなぁ。)」
鈴木「臼井さん、ハンドボールは難しいし、オレ、陸上を本気でやってみるよ!」
臼井「うん、いいと思うよ。じゃあ早速、試合に出てみようか!!」

ここにジャンパー鈴木徹が誕生した。

濃密な3か月

鈴木の初陣はすぐにやってきた。

臼井「鈴木君さあ、パラリンピックを目指すにしても次の4年後のアテネだよね。」
鈴木「そうですね、さすがに時間なさすぎですよね……。」

2000年10月に開催予定のシドニーパラリンピックの代表が決まるのが6月だった。4月デビューで6月に選ばれるなんて非現実的だ。
しかし、初めての大会でシドニーパラリンピックの参加標準記録である173cmをクリアし、その後の大会でも185cmまで記録を伸ばし、同年6月に鈴木はシドニーパラリンピックの陸上競技日本代表選手に選出されてしまうのである。

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