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東尾修【後編】死球も辞さない“ケンカ投法”で立ち向かう/プロ野球1980年代の名選手

週刊ベースボールONLINE

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

“野武士”秘伝のシュート&スライダー



1987年、最多勝、そしてMVPを獲得する活躍でリーグ連覇に貢献

 1984年は優勝こそ阪急に譲ったが、自身は通算200勝に到達。王座奪還を懸けて臨んだ翌85年は肩の激痛と戦いながらのマウンドになる。ただ、思うように腕が振れないことで、やむなく投げたチェンジアップ気味のフォークが奏功して、開幕から10連勝と数字だけは絶好調だった。

 さすがに夏場は戦線を離脱したが、最終的には17勝3敗。西武も王座に返り咲いて、胴上げ投手にもなっている。日本シリーズでは猛虎フィーバーで勢いに乗る阪神の軍門に下ったものの、エースの面目躍如といえるシーズンだった。そして、どん底の九州時代からのキャリアにあって、大きな意味を持つシーズンでもあった。

 84年までの通算成績が201勝215敗。当時、通算200勝に到達して負け越していたのは、梶本隆夫(阪急)と2人だけだった。それが、85年の17勝3敗で、ついに通算218勝218敗と、五分になったのだ。

 負けても負けても投げ続けた若手時代。それは、ライオンズの低迷期でもあった。そんな時代にあって、何よりもまず“顔”で負けるわけにはいかなかったのだろう。現在でも左の奥歯を治療することがあるというが、「晩年は130キロぐらいしか(球速が)出なかったが、にらみを利かせるには150キロのような顔を作らなければならず、自然と打者に向いている左側の奥歯に力が入った」からだという。

 ただ、剛速球を持たないのは若手時代も同様。シュートとスライダーを使い分け、打者の内角を厳しく攻め、死球を与えることも辞さなかった。その投球術は、いつしか“ケンカ投法”と呼ばれるようになる。

 強心臓ばかりが強調されがちで、確かに“顔”のインパクトも大きかったが、実際は計算し尽くされた投球術だった。ペーパーのデータではない。すべての投球に狙いがあり、常に打者の反応を観察しながら蓄積していった情報に裏付けられていた。シュートの師匠は若手時代にコーチだった河村久文(英文)。現役時代はシュートの使い手だった右腕だ。

 一方、スライダーの師匠は監督だった稲尾和久。西鉄黄金時代にエースの座をリレーしたような2人の“伝家の宝刀”を思う存分に振り回し、インコースとアウトコースで打者を揺さぶり続けた。厳しく内角を攻めたため、通算死球はプロ野球記録となる165を数える。だが、内角の見せ球を避けきれずに当たることがほとんどで、プロであれば、いちいち頭を下げるようなことではないとさえ思っていた。

波乱万丈の20年


 85年限りで広岡達朗監督は退任。86年からは森祇晶監督となるが、危なげなく西武はリーグ優勝、日本一に輝き、そんな西武にエースとして君臨し続ける。3年連続リーグ優勝、2年連続で日本一となった87年は若き左腕の工藤公康と最優秀防御率のタイトルを争う。タイトルは工藤に譲ったものの、勝ち星では15勝で工藤と並び、貢献度もあって2度目のMVPに選ばれている。

 ただ、この男の場合は歓喜と波乱は不可分の一体。86年は死球を受けた近鉄のデービスに乱闘を仕掛けられる。当たったのは右ヒジ。外角へのボールを狙って踏み込んで避けられなかっただけだと思ったが、阪急の上田利治監督をはじめ、いつも故意に死球を当てているかのような発言が相次ぎ、被害者にもかかわらずバッシングを受けた。

 ちなみに、この試合は意地の完投勝利。次の登板となった阪急戦でも内角球なしで完投勝利を挙げて、上田監督に意地を見せつけた。だが、87年オフには自らの不祥事で半年間の謹慎に。翌88年6月下旬に処分が解除されたが、実戦感覚が戻らず、日本シリーズでの救援登板を最後に20年の現役生活を終えた。

 パ・リーグの多くの強打者たちに“ケンカ投法”で立ち向かっていったエース右腕が、内角へ厳しく攻めるのではなく、外角へ緻密にコントロールされた沈み込むボールで勝負を続けたというのが、南海の門田博光だ。門田は「ワザにワザで返した」と称賛している。この“ワザ”については次回で詳述したい。

写真=BBM

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