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東尾修【前編】栄光にあっても波風が立ち続ける右腕の宿命/プロ野球1980年代の名選手

週刊ベースボールONLINE

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

初めての美酒



西武・東尾修

 1982年、前期を制した西武は、後期優勝で前年のリーグ覇者でもある日本ハムとプレーオフで激突、3勝1敗でパ・リーグの頂点に立った。ライオンズとしては19年ぶりのリーグ優勝。チームが西武となって初めての歓喜であり、ライオンズひと筋14年目の東尾修にとっても初めて味わう美酒だった。

 その82年は、“野武士”の系譜に連なる右腕にとって転機でもあった。就任した広岡達朗監督は、就任会見で「この世界は実績も顔も関係ない。実力だけ」と言い切り、その後も歴戦の右腕を目の仇にするような発言を繰り返す。面と向かってならいいが、たいていはマスコミを通して。もちろん、これも広岡監督なりの考えがあってのことだが、苛立ちは募った。

 さらに、キャンプの夕食は玄米、豆乳などの自然食に。それはまだいい。困ったのは禁酒だ。練習で汗をかいた後は、1杯ぐらい飲みたい。トレーナーの小型冷蔵庫でビールを冷やし、ヤカンに入れて、お茶を飲むようにして、ゴクゴクと喉ごしを味わうようにはいかなかったが、こっそり飲んだ。ささやかな抵抗だった。それが見つかったわけでもないだろうが、開幕投手を外され、ペナントレースでは結果を出しながらも、批判を浴び続けることになる。

 チームの雰囲気は空中分解しかねないほど悪くなったが、チームが勝ち進んだこともあってギリギリで踏みとどまり、そのまま前期優勝。中日との日本シリーズではリリーフに回って2勝1セーブ、胴上げ投手にもあって、MVPにも選ばれた。

 その後、西武は90年代にかけて黄金時代を謳歌、その前半の原動力となっていく。

「広岡さんを監督にしたのは大正解。ただ、優勝しなければ間違いなくチームはバラバラになっていた。紙一重だね」と、のちに振り返っているが、広岡監督が就任会見でやり玉に挙げた「実績と顔」を、駆け足で追いかけてみたい。

 ドラフト1位で指名され、69年に入団。当時の本拠地は九州の福岡。チーム名は西鉄ライオンズだった。その秋、チームは“黒い霧”に覆われる。あこがれの存在でもあった池永正明は疑惑を最後まで否定し続けたものの永久追放処分に。主力が抜けたことで、未完成だった右腕は実戦で鍛えられることになる。

 勝ち続けたが、それ以上に負け続け、それでも投げ続けた。チームが太平洋となった73年に初の勝ち越し。75年に23勝を挙げて初の最多勝に輝いた。ただ、同年も含めて、すでに敗戦も3度のリーグ最多を経験している。チームは77年にクラウンとなったが、優勝は遠かった。西武となって迎えた79年、本拠地も埼玉の所沢へ移転する。

新天地の所沢で


「身売りは慣れていたけど(笑)、本拠地の移転は初めてだったから戸惑った。福岡に家を買ったばかりだったから、『ちょっと行ってくるわ』と単身赴任にしました」

 その79年はプロ野球記録に並ぶ開幕12連敗。根本陸夫監督の時代は、まだ福岡の延長線上にあった。阪神から移籍してきた田淵幸一と気が合い、よく飲みに行った。80年代に入っても、それは変わらなかった。それでも、西武は80年の後期に一時は首位に立つなど、上昇の兆しを見せ始めていた。81年限りで根本監督がフロントに転じ、“最後の補強”として招聘したのが広岡監督だった。

 優勝を経験したものの、シーズン10勝に終わった82年だったが、翌83年は真価を発揮する。18勝、防御率2.92で最多勝、最優秀防御率の投手2冠でリーグ連覇の立役者となり、MVPにも輝いた。勝ち星こそ初の最多勝となった75年に届いていないが、まさにキャリアハイ。西武も日本シリーズで巨人との激戦を制して2年連続で日本一もなった。

 最高のシーズンのはずだが、ライオンズの人間であれば絶対に言われたくないような、八百長を疑うようなことを広岡監督が言ったこともあり、釈然としない思いが残る。栄光にあっても波風が立ち続けるのは、この男の宿命だったのかもしれない。

写真=BBM

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