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原辰徳【後編】巨人の四番打者として、すべてを真っ向から受け止めて/プロ野球1980年代の名選手

週刊ベースボールONLINE

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

運命のフルスイング



巨人・原辰徳

「王(貞治)さん、長嶋(茂雄)さんという偉大な先輩の後ですし、そういう部分で、しんどいな、と思ったこともあるけど、そういう先輩がいたから頑張れたというのがある。ジャイアンツのユニフォームを着ている限り、倒されてたまるか、お前たちを倒してやる、という強い気持ちは、いつもありました」

 当時、巨人戦は特別なものだった。常にテレビで中継され、各チームは必ずエースを投入。巨人の四番打者として、他のチームからの挑戦も、厳しい批判も、真っ向から受け止めた。

 1986年9月24日の広島戦(後楽園)。守備中に左手首を痛め、痛み止めの注射を打って打席に入る。広島とは優勝争いを繰り広げていた。マウンドには“魂のストッパー”と言われた津田恒実。六、七分の力でしかバットを振れない状態だったが、「津田がまさに全力投球でしょ。それに対して、自分の力をセーブするなんてダメだと思ったんです。あのスイングは自分の一番いいスイングだと思っています」。

 津田が投じた渾身のストレートに対して、打球はファウル。左手首の有鉤骨を折り、その後は引退まで自分のスイングができなくなった。

「悔いはなかったですよ。そう思わせるピッチャーでしたしね」

 それでも85年から88年までは30本塁打を超えた。その86年は広島の優勝を許したが、翌87年は王座を奪還。転機は89年だった。王監督時代を経て、藤田元司監督が復帰。

「恩師である藤田さんが外野に行ってくれと。駒田(徳広)が成長してきたんで、駒田を一塁、中畑を三塁で使いたいということでした」

 守備には慣れたが、バットが湿った。新人から9年連続20本塁打を超えたのは新記録ではあったが、25本塁打にとどまり、チームは優勝したが、不完全燃焼の思いが残る。さらに近鉄との日本シリーズでは初戦から3連敗。明らかにブレーキとなっていた。18打席連続で迎えた第5戦。7回裏、前を打つクロマティが敬遠され、満塁となって打席に向かった。

「あそこで打てずシリーズを負けていたら、僕の野球人生は違ったものになっていたでしょう。決して、いい思い出なんかじゃない。野球の怖さを感じて、ひとつのプレーに命を懸けるというのは、こういうことかなとも感じました」

 結果は満塁本塁打。どこかホッとしたような表情で本塁を踏んだ。そのまま巨人は4連勝で大逆転の日本一。好奇の目で見れば、第3戦の勝利投手となった近鉄の加藤哲郎が言ったとされる「巨人は(パ・リーグ最下位の)ロッテより弱い」がターニングポイントとして注目されがちなシリーズだが、せいぜいグラウンドの外での話だ。実際には、この満塁弾こそ、日本一を呼び込んだ号砲と言えるのではないだろうか。

新たなる巨人の四番打者として


「私の夢には続きがあります」

 92年には一塁に回り、チーム初の1億円プレーヤーになったが、翌93年に長嶋監督が復帰すると、出場機会が減っていく。続く94年にはアキレス腱を断裂、開幕は二軍スタートとなった。それでも、中日との史上初の最終戦同率優勝決定戦“10.8”には出場、西武との日本シリーズでは適時打を放って日本一に貢献するなど存在感を発揮する。だが、95年は早々に引退報道が流れた。9月20日の中日戦(東京ドーム)の6回表から守備に就き、次の打席で本塁打を放つと、お立ち台で号泣した。

「たまにしか出てこない自分に、こんな声援を送ってくれた。感謝をこめて打ちたかった」

 10月に入って引退を発表。8日の広島戦(東京ドーム)が引退試合となった。

「巨人軍には巨人軍独特の、何人たりとも侵すことのできない聖域があります。私はこの15年間、それを肌で感じてまいりました」

 セレモニーでマイクの前に立って語ったのは、背負い続けた伝統の重さだった。そして、「私の夢には続きがあります」と、つないだ。

 前編の冒頭に戻る。80年のドラフトで咲いた夢の花は、15年の時を経て、枯れて落ちたのかもしれない。だが、21世紀に入り、その夢は確かに実を結んだ。

写真=BBM

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