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原辰徳【前編】80年代を象徴するGのスター/プロ野球1980年代の名選手

週刊ベースボールONLINE

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

信じていたドラフト



巨人・原辰徳

 1980年オフ。巨人は大きな過渡期にあった。長嶋茂雄監督が事実上の解任。それに抗議して親会社の読売新聞に対する不買運動が起こる。さらに、王貞治も現役を引退。長くチームの顔だった“ON”が一気にいなくなり、当時の巨人には勝利を呼び込む実力のある選手というだけでなく、ファンを惹きつけるスター選手が求められていた。

 そんな秋のドラフトで、1位で指名されたのが原辰徳だ。神奈川の東海大相模高で1年から三塁のレギュラーとなり、センバツに1度、夏の甲子園には3年連続で出場し、高校通算43本塁打。プロの各チームも注目したが、「僕の夢は巨人の1位指名だった。でも、そのとき現実にはそういう話はなく、『よし、なら大学でそういう選手になってやる』」と、東海大へ。やはり1年から三塁のレギュラーとなり、神宮大会の決勝では、法大の4年生で、のちに巨人のチームメートとなる江川卓から本塁打を放った。

 大学時代は2度の三冠王、3度のMVP。“長嶋2世”……こう多くの選手が形容されながら、その期待に応えられずにいたが、長嶋と同じ三塁手ということもあり、ついに本物が現れた、と誰もが思ったことだろう。そして80年の秋。藤田元司新監督が原の1位指名を明言。ただ、複数球団による競合は確実で、実際に広島、大洋、日本ハムも指名した。だが、不安がよぎったのは3秒だけだという。

「長い間、思いを募らせ、相手も来てくれ、と言ってくれたわけですから、入れないわけがないというのが信念としてありました」

 のちに巨人の監督となって“ジャイアンツ愛”を掲げた原だが、それは入団前から育まれていたものであり、また信念でもあった。

 当時の巨人には、80年に三塁の定位置をつかんだばかりの中畑清がいて、対抗心むき出しのコメントを連発。キャンプの第2クールから二塁手としての準備を始めた。

「正面からポジション争いをしたかった、というのはあった。でも、ならば俺は今までいなかった大型セカンド、ホームランを打てるセカンドになろうと思った」

 慣れない二塁守備にアドバイスを送ったのは、やはり80年に正二塁手となったばかりの篠塚利夫(和典)だった。

「すごくフェアな人。知っていることは教えるが、その先はプロだから勝負だぜ、というスタンスですね」

 対する篠塚は、「守備では、いくらアドバイスしても負けないと思っていたから気にしなかった」と矜持をのぞかせる。

 開幕戦は篠塚が外れ、二塁に原、三塁に中畑のラインアップとなった。だが、その試合で中畑が負傷。「サード、原」が告げられると、球場はどよめきに包まれる。そのまま三塁に定着、最終的に22本塁打を放って新人王に。二塁に入った篠塚も首位打者を争うほど打ちまくり、レギュラーを譲らず。復帰した中畑は一塁へ回り、正遊撃手で内野陣のリーダーでもあった河埜和正を中心に、巨人80年代の内野陣が完成した。

新たなる巨人の四番打者として


 爽やかな笑顔の“若大将”が入団したことは、思わぬ副産物も生んだ。入団の経緯でヒールとなっていた江川が別人のように明るくなり、笑顔や冗談が増えるようになる。

「江川さんは僕が変えたというより、本来の明るい性格が、あの頃から出始めたということだと思いますよ」

 いずれにしても、投打の主役は人気を呼び、80年代を象徴するスターとなっていく。その81年は江川の活躍もあって優勝、日本一に。続く82年は四番に座ることも増えた。33本塁打、92打点はチーム最多。32本塁打を放った83年は103打点で初タイトルの打点王に輝く。2年連続で勝利打点王にもなり、リーグ優勝の立役者としてMVPにも選ばれた。

 新たなる“ミスター・ジャイアンツ”として、順風満帆のスタートを切ったかに見えた。ただ、巨人の四番打者には独特のハードルがある。巨人が84年から2年連続で優勝を逃すと、「勝負弱い」「40本塁打は欲しい」という批判が容赦なく浴びせられた。

写真=BBM

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