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鹿児島実高・定岡正二、旋風を起こしたアイドル(甲子園ヒーロー列伝/02)

週刊ベースボールONLINE


甘いマスクで人気者に



 100回の記念大会を迎える夏の甲子園。週べオンラインでも、本大会開幕まで、甲子園を沸かせた伝説のヒーローたちを紹介していこう。

 まったく無名の高校生の人生が、ひと夏、いや1試合で変わる。
 そんなシンデレラ・ストーリーもまた、甲子園の持つ魅力の一つと言える。

「あの夏はほんの2週間くらい、いや一晩で僕の人生は確実に変わりましたね」
 そう語ったのは、1974年夏、鹿児島実高のエース、定岡正二。彼もまた、甲子園の魔法にかかった一人だ。

 甲子園出発の日、見送ったのは、学校関係者、家族や親せきだけだったという。甲子園に行っても、だれも自分のことなんて知らない。
「でも帰るときは違いました。鹿児島が近づくと、駅で止まるたびに僕らを待っている人が増えていった。西鹿児島駅に着いたときは、3000人以上いたんじゃないかな。みんなで言ってたんですよ、あれ、きょうなんか祭があったけって。だって信じられないでしょ。こんなにたくさんの人が僕らを待っていてくれたなんて!」
 
 最初の甲子園は2年夏。代打で1回出ただけだったが、当時、修学旅行の熊本がもっとも遠出だったという定岡にとって兵庫、大阪は『大都会』。見るもの聞くもの驚きの連続だったと笑う。

 新チームからエースとなったが、当時鹿児島には堂園嘉義がエースの鹿児島商高が最強の名をほしいままにし、鹿児島実高は二番手、三番手の扱いだった。

 それが「完全な番狂わせ」(定岡)で、3年夏の鹿児島大会決勝は鹿児島実高が鹿児島商高を破り、甲子園出場を決めた。

 本人は「誰も見向きもしなかった」というが、甲子園では初戦(2回戦)、3回戦と1対0の完封勝利。好投手定岡の評判は1試合を投げるたび高まっていた。

 次の相手が優勝候補の東海大相模高(神奈川)だ。原貢監督と1年生の原辰徳の“親子鷹”が話題となっていたチームである。
 そして、この試合が定岡の運命を変える──。

 8月17日、前の試合が雨で中断があった関係で15時59分にスタートした試合は、東海大相模が初回に2点先制も3回表、鹿児島実が3点を奪い、その後は両軍0が並んだ。
 しかし土壇場、9回裏に東海大相模に追いつかれ、試合は延長戦に。

 そのまま再び0が続く。14回にはお互い1点ずつを取り合い、決着は15回。鹿児島実が表に1点を奪うも、その裏、東海大相模の反撃はなく、19時37分、ゲームセットとなった。

 試合は途中からナイターに突入。当時、中継の延長がなかったNHKのテレビ放送が終わってしまい、電話の抗議が殺到して翌年から試合中継の延長が決まったという逸話もある。最高視聴率は34パーセントだった。

 強豪東海大相模相手に力投する定岡の姿が甲子園ファンの胸を打ち、甘いマスクもあって、以後、定岡はアイドル的な人気者となった。
「最初は8、9割に人たちが相模が勝つと思ったでしょうね。辰徳もいるから球場の雰囲気も相模寄りだった。でも、だんだん変わってきましたね。強豪相手に、僕らが一生懸命やっている姿を見て、変わってきたんじゃないですか」
 延長15回、定岡は213球を一人で投げ抜いた。「打たれたくなかった1年坊」という原には3安打2打点を食らっている。
 
 ただ、翌戦は、このナイトゲームの翌日というハードスケジュール。それでも準決勝の防府商高戦(山口)に先発した定岡だったが、疲れもあって集中力を欠き、3回の攻撃中、走塁で手首を捻挫。我慢して次の回は投げたが、結局、交代し、病院に治療に行った。
 
 戻ったのは8回だったが、試合は、けん制悪送球をカバーしたセンターがそれを後逸し、サヨナラ負け。定岡はこう振り返る。
「僕も泣きたかったけど、センターをやっていたヤツがあまりに泣くんで、泣くに泣けなくなった。高校3年間は、つらかった思い出ばかりですが、ものすごく充実した時間でした。あんな濃密な時間はありません」

 定岡は翌75年、ドラフト1位で巨人に入団。晩成であったが、江川卓、西本聖とともに先発三本柱として活躍している。

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