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日本人と聖徳太子の1400年史、万華鏡のように照らし合う時間と空間の旅〜奈良国立博物館・特別展「聖徳太子と法隆寺」

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間違いなく、日本人の精神史に最大の影響を与えた人物だろう。「聖徳」と言う最高クラスの諡号*というか、「聖」と「徳」という文字通り最高の文字の組み合わせは、歴代天皇さえ誰もここまでの名をおくられてはいない。むしろ「どの天皇よりも天皇らしい」「もっとも天皇らしい」とすら言えそうだが、それを言うなら用明天皇の第二皇子は、歴代のどの天皇よりも有名で、親しまれ、もっとも敬愛を集めて来た。

*東アジアで君主や高僧などに死後に敬意をこめてつけられる名、おくり名

聖徳太子坐像 平安時代 保安2(1121)年 奈良・法隆寺(聖霊院安置・秘仏) 国宝
法隆寺で聖徳太子を祀るために、西院伽藍の東側にある僧坊・東室の南端を改造して作られた「聖霊院」の本尊。秘仏で年に一度、太子の命日である旧暦2月22日の「お会式」の時のみ開帳され(ほぼ毎年新暦3月22日〜24日)、こうして博物館で公開されるのは大変に珍しい。「摂政像」の成人した衣冠束帯姿だが、頭には中国の皇帝がかぶり、日本でも聖武天皇以降は即位式などで天皇が着用した「冕冠」を頂く。太子はむろん天皇になっていないが、しばしば「法皇」「法王」と呼ばれる。

「和を以って貴しとなす」というその言葉は、以降の日本人の価値観・道徳観の基礎となり、その国民性を決定づけた重要性は他の多くの国の場合なら「建国の英雄」神話にあたるどころか、それ以上かも知れない。日本史を通じて天皇制が信頼と支持を得て来たことには、聖徳太子の存在が間違いなく大きく関わっているし、また後の歴代天皇にとって重要な道徳的指標、理想とすべき君主の在り方を示し続けても来た。

もっとも、本サイトの読者の皆さんであれば、「実在しなかった」「『日本書紀』の創作」などと小耳に挟んだこともあるかも知れない。どうも最近は聖徳太子となるとこの「非実在説」が避けて通れない話題になるようなのでちょっとだけ触れておくと、学説として「非実在説」「虚構」という触れ込みは、どう考えても誤解を招く極論だ。

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大山誠一・中部大学名誉教授の「非実在」説は「日本書紀」に記述がある太子の政治的業績について「創作では?」と疑念を提起するもので、「古事記」にも「上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやのうまやとのとよとみみのみこ)」と名前は記されている用明天皇の第二皇子・厩戸王*が実在の人物であることは否定していない。

聖徳太子坐立像(二歳像・南無仏太子)鎌倉時代 徳治2(1307)年 奈良・法隆寺
二歳の時に東を向いて合唱し「南無仏」と唱えたという太子の姿

*昨今の歴史学や教科書では、歴史上の人物としては「厩戸王」を用いるのが一般的。「日本書紀」での和風の諡号は「厩戸豊聡耳皇子命(うまやとのとよとみみのみこのみこ)」でこの呼称は「古事記」とこの和風諡号に基づき、「実在・非実在」説や漢風諡号の「聖徳太子」が後代に付けられた等とは特段関係なく、「皇太子」制度が確立していなかった古代の他の天皇家の子女の一般的な表記(太子の長男・山背王や弟の殖栗王、のちに天智天皇となる中大兄王、長屋王、「万葉集」の歌人・額田王などなど)との統一性を優先したもの。なお天皇(大王)については、奈良時代以降に成立した呼び名であっても漢風諡号を使うのが通例。太子の「諱(本名)」や生前にどう呼ばれていたかは必ずしもはっきりしておらず、後の時代の受容も含めて仏教で信仰の対象となった太子についての宗教史、美術史、文化史の文脈では「聖徳太子」が合理的だろう。

なのになぜ「非実在」説だなんて大袈裟に言ってしまったのだろう、というのはともかく、「古事記」における名前の冒頭の「上宮」、太子が居を構えた「斑鳩宮」も考古学調査で存在がはっきりしていて、現在の法隆寺の「夢殿」を中心とする東院伽藍がその跡地だ。

そして現在の法隆寺の元になった、太子の生前の「斑鳩寺」(若草伽藍)も発掘調査で礎石や瓦などが発見され、規模も分かっている。今の金堂や五重塔がある西院伽藍より東、つまり斑鳩宮のすぐそばにあったわけで、どう考えても無関係なはずがない。

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