「毒親」でも両親を慕うコタローが表紙に描かれている『コタローは1人暮らし』第1巻(著:津村まみ/小学館)

【画像】さまざまなパターンがある「毒親」マンガ(5枚)

どんな毒親でも、子供はその愛を欲しいと願う…

「親ガチャ」とは、なんとも心がザワつかせる言葉です。親は「親ガチャ外れ」と言われれば悲しく腹も立ちますし、逆に「親ガチャ当たり」と言われても、やはりそんなことを言う子供に対して残念な気持ちになります。

 しかし、その親が子供にとって「毒親」だった場合、話は別です。子供は「外れだ!」と逃げていいし、関係を切って自分を守ってしかるべきでしょう。今回は子供を支配し悪影響を及ぼす「毒親」との関係を描いたマンガ5作品をご紹介します。「毒親」との関係性は、自分ではなかなか客観視しづらいものです。物語や他の人の体験談は自分の置かれている状況を見つめ直すきっかけになるかもしれません。

けなげな4歳児に胸がつまる…『コタローは一人暮らし』(著:津村マミ)

「アパートの清水」203号室に引っ越してきた幼稚園児・さとうコタロー(4歳)は、ひとり暮らし。もうこれだけで、コタローの「ワケあり度」がかなり高いことがわかります。律義にご近所さんにボックスティッシュを持って引っ越しのあいさつに回るコタローの姿に、「父親は?」「母親は?」「なぜ幼児がひとり暮らし?」「なぜそんなにいつも真顔?」と、いくつもの疑問がわき、心がざわつく展開です。

 コタローは、「わらわ」「~であるぞ」という、大好きなTVアニメのキャラクター「殿様語」でしゃべります。しかし、キャラクターの真似をしているからといって、それが「子供らしくてかわいい」わけではありません。TV画面の至近距離に座り、深夜アニメをリアルタイムで見るコタローの姿に、隣人の漫画家・狩野は気づくのです。コタローには、「そんなに近くで見ていると目が悪くなるよ」「早く寝なさい」と注意してくれる大人が身近にいなかったことを……。

 そんなふうに、ジワジワとコタローの育った特殊な環境が明らかになっていきます。父の暴力、母からのネグレクト、そして誰も帰ってこなくなった家……。耐えきれず、ついにコタロー自身も家を出ますが、やっと心を許せる友達に出会った児童養護施設にまで父親が乗り込んできます。その父から逃げるために、コタローはひとり暮らしをすることになったのです。

 コタローは母が亡くなったことも、定期的に弁護士が届ける生活費が母の保険金であることも知りません。自分が強くなれば父が母に暴力を振るうこともなく、母も泣かずにすみ、また家族で暮らせるはずだと信じています。コタローにとってひとり暮らしは、強い男になるための修業なのです。

「親ガチャ」ということで言えば、コタローの場合は残念ながら「親ガチャ大外れ」でしょう。かしこく、人を思いやれるコタローなので、愛情深い親の元に生まれ育っていれば、楽しく豊かな幼少期を送れていたはずです。隣人の狩野をはじめ、クセ強だけどあたたかいアパートの住人たちに見守られ、コタローの心も少しずつ癒やされてきてはいるようですが、いまだに父や母の虐待が自分のせいだと考えていたり、いつかまた両親と暮らすことを考えたりするところに「親ガチャ失敗」という言葉だけでは済まされない切なさを感じます。

母から娘へ「毒親連鎖」がつらい『凪のお暇』(著:コナリミサト)

『凪のお暇』の主人公、大島凪(28歳)は、まわりの空気を読み、目立たず嫌われないように神経をすり減らしていました。そんな彼女が会社やモラハラ彼氏から離れて「お暇」のなかで自分らしい生き方をゼロから模索していきます。しかしそこに北海道に住む凪の母・夕がからんできたことで、彼女の再出発の道に暗雲がたちこめます……。

 母・夕は外面が良いため、おとなしく善良に見えますが、凪が罪悪感を抱くような物言いをする人でした。それは凪が子供の頃から続いている「支配」です。凪は母の言動に対して違和感や息苦しさはあったものの、自分がコントロールされ支配されているとは意識していなかったようです。

 しかし「お暇」で得た小さな自信の積み重ねのおかげで、不器用ながら母の支配からの離脱をはかり、母もそれを認めてくれた……と思ったのもつかの間、いつの間にか再び母にからめとられて北海道の実家での暮らしを余儀なくされるのです。そしてそこで凪は、母もまた祖母から支配されていることに気付きます。娘をジワジワいたぶることで自分の不幸を薄めてきた祖母と母の「毒親連鎖」……。

「母からの支配を感じている娘」は思っている以上に多いようで、ネット上では「私も胸が苦しくなった」「自分の母もこうだった」という共感の声が多く見られます。今後、凪はどのようにして「毒親」の連鎖から抜け出していくのでしょう……。

死してなお解けない「母の呪縛」『イグアナの娘』(著:萩尾望都)

『ポーの一族』、『11人いる!』、『トーマの心臓』などで知られる萩尾望都さんの著した短編作品『イグアナの娘』は、「毒親マンガ」の古典と言われています。発表されたのが1992年なので、「親ガチャ」はもとより、「毒親」という言葉もまだ生まれていませんでした。

『イグアナの娘』は、自分の産んだ娘がイグアナにしか見えない母と、そんな母に育てられたせいで自分のことがイグアナにしか見えない娘の物語です。娘のリカは当然、自尊心も自己肯定感も低いまま育ちますが、幸いなことに牛に見える頼れる男性と結婚し母と離れることができました。

 しかし、彼女は自分が産んだ娘に対して愛情を抱けず、苦悩します。そんな折に母親が急死。亡くなった母がイグアナの姿になっているのを見た時、リカは母が自分を疎んじたのは、自分のなかに母の嫌な部分やコンプレックスを投影していたからだと理解します。ただ、リカは最後までイグアナの姿のままなので、「母の呪縛」が解けたわけではないのでしょう。

 絶縁したり、相手が亡くなったりしても、受けた心の傷が癒えるわけではありませんが、母に嫌われたのは自分が何か悪かったせいではないということが分かって、リカは自分の娘のことを愛せるようになるのが救いです。



美しく、「いつもちょっとかわいそう」な母が表紙に描かれた『新版母さんがどんなにぼくを嫌いでも』(著:歌川たいじ/KADOKAWA)

(広告の後にも続きます)

エッセイマンガは、トンデモ「毒親」の宝庫…!?

「洗脳」は「毒親あるある」 『新版母さんがどんなにぼくを嫌いでも』(著:歌川たいじ)

 2018年に映画化もされた『母さんがどんなにぼくを嫌いでも』は、著者・歌川たいじさんと母親との確執、愛憎、虐待の日々を描いた作品です。美しくてカリスマ性がある母に愛されたいと願った歌川さんですが、母からの愛が得られないばかりか、肉体的にも精神的にもひどい虐待が続きました。それでも父が経営する会社の従業員たちと古株の「ばあちゃん」が愛情を注いでくれますが、両親の離婚ではなればなれに……。

 その後、母からの虐待はさらに激しくなり、学校でのイジメも加わって、歌川さんはますます追い詰められます。母からの暴力や暴言、無視は当然のこと。なぜなら自分が醜くて汚い自分が悪いし、「自分には価値がない」から……。

 そんな「洗脳」は、「毒親あるある」と言われます。物心ついた頃から家を出る17歳まで、長い時間をかけて洗脳されてきた歌川さんを救ったのは、彼を認め愛情を注いでくれた「ばあちゃん」と友人たちでした。『母さんがどんなにぼくを嫌いでも』という悲しく、すがるようなタイトルに心がギュッと痛みます……。

憎めない、嫌えないからつらい…『酔うと化け物になる父がつらい』(著:菊池真理子)

 父はアルコール依存症、母は新興宗教にのめりこみ後に自死という特殊な環境で育った著者・菊池真理子さん。「親ガチャ」で言えば、完全にアウトです……。そんな彼女の実録エッセイマンガ『酔うと化け物になる父がつらい』がWebマンガ配信サイト「チャンピオンクロス」(秋田書店)で発表されると、「つらすぎて泣ける」と話題になりました。

 彼女は母の死について、つらかったのを理解してあげられなかった自分のせいだと苦しみ、父と似た男性を好きになってDVや束縛で苦労します。そして、相変わらず泥酔して帰宅する父との激しいケンカに消耗し、がんで弱った父を罵倒して罪悪感にさいなまれ、さらに父の死後でも父本人のことや父に対する自分の態度を許せずに苦悩したりもしているのです。

 健全な家庭を知らずに育った彼女は、常に一般的な幸せとかけ離れてしまうような選択しかできません。どんなに「化け物」であっても、父を「憎めない、嫌えない」彼女が、どう苦しさや罪悪感、損失感を消化していったか、自分との戦いの記録でもあります。

 エッセイマンガの作者のなかには、ほかのエッセイマンガを読んで初めて自分が「毒親家庭」に育ったことに気付いたという人もいます。フィクション、ノン・フィクションあわせて、さまざまな物語を知ることは、自分らしく生きるための一歩となるかもしれません。