『ドラえもん』の物語を動かす主要人物は、のび太とドラえもん、ジャイアン、スネ夫、しずかちゃんの5人。画像はアニメ「ドラえもん」主題歌「夢をかなえてドラえもん」(日本コロムビア)

【画像】「国民的アニメ」4作品の「父親」存在感をジャケットで比較(4枚)

他の国民的アニメは父親登場が必然だった?

 日本に国民的アニメと呼ばれるものがいくつもあります。なかでも、何十年にもわたって放送されている『サザエさん』(原作:長谷川町子)、『ちびまる子ちゃん』(原作:さくらももこ)、『ドラえもん』(原作:藤子・F・不二雄)、『クレヨンしんちゃん』(原作:臼井儀人)をまとめて四大国民的アニメと呼ぶ向きもあるようです。

 これら4作品に共通するのは、「家族」が大きな主題として物語に組み込まれていることです。ただ、『ドラえもん』だけはちょっと異質です。それは決して『ドラえもん』だけがSFで非現実的だから、という意味ではありません。「父親」という存在のあり方が他作品と違うようなのです。

 例えばここでいきなり「のび太のお父さんの名前は?」とクイズを出したとき、「野比のび助」と即答できる人は、かつてドラえもん博士の異名を得ていた人くらいでしょう。一方、「さくらヒロシ」「磯野波平」「野原ひろし」の名前は多くの方がわかるはずです。

 なぜのび太のパパの名だけ「雑学」になってしまうのでしょうか? 言い換えれば、他の3作品と比べて『ドラえもん』の世界にはなぜ「父親」の気配が小さいと言うことができます。紐解いてみると、当然のごとくひとくくりにしていた「国民的アニメ」が、いかに多様な出自を持っているかに改めて気づかされます。

そもそも「大人向け」だった『サザエさん』『クレヨンしんちゃん』

 当然ながら「父親」の存在感は「描かれているかどうか」で決まります。そしてマンガにおいてはその登場人物が描かれる必然性があるかどうかが肝となっています。

 例えば『サザエさん』の原作は朝日新聞などで連載された四コママンガ。新聞連載ということで、そもそも主なターゲットはサラリーマン世代。また「父親像」が変わる過渡期を経ており、波平やマスオの気苦労は散々ネタにされてきました。アニメ版も当然、その世界観を引き継いでいます。

 また『クレヨンしんちゃん』も、父親である野原ひろしの存在がアニメでは非常に重要な位置を占めていましが、これも原作からしっかり引き継がれたもの。同作はもともと1990年に双葉社「漫画アクション」という青年マンガ誌で連載されていたもので、むしろ大人目線で描かれた子育て奮闘記としての側面も持っていました。「父親」ありきで描かれていた作品といえるでしょう。

作者の家族をモデルにしている『ちびまる子ちゃん』

 『ちびまる子ちゃん』はどうでしょうか。こちらも国民的作品でありながら、その出自はなかなか独特です。今でこそ当たり前のジャンルなった「エッセイマンガ」の先駆け的存在だった本作ですが、「さくら家」は作者さくらももこ先生のご家族を下敷きに(だいぶ理想を混ぜつつ)描かれています。

 記憶に基づいた作品という点において父親を描かねばならない必然性が確かにあるのです。そしてもちろん、アニメ版もまたしかりです。

『ドラえもん』の世界における「父親」の必然性は…

 『ドラえもん』の連載が開始されたのは1969年、小学館の学年誌でした。他の3作品も子供を中心に描いていることに違いはありませんが、明確に「児童向け」マンガとして描かれていたのは唯一『ドラえもん』だけなのです(『ちびまる子ちゃん』の「りぼん」のメインターゲット層は中学生も含みます)。

 児童向けマンガには当然ながら「児童目線」が導入されます。そうなってくると残念ながら、普段は仕事に行って家にいない「父親」という存在は物語に登場する必然性が低く、休日でない限りは招集されません。

 こと『ドラえもん』はのび太とジャイアン、スネ夫、そしてしずかちゃんを中心に構成された子供の世界にドラえもんがやってくるもの。のび太のパパも滅多に登場しない超レアキャラクターというわけではありませんが、のび太が恐れるのはいつだって家にいるママです。

 また、テレビ朝日のアニメ『ドラえもん』公式サイトでは、のび太のパパは紹介されていますが、ジャイアン、スネ夫、しずかちゃんのパパの紹介はなく、それぞれのママだけが紹介されているのです。

 以上、『ドラえもん』世界で父親がほとんど登場しない理由を原作の連載媒体の対象年齢から読み解いてきました。家族のありようは絶えず変化しています。『ドラえもん』における「父親」の存在感が増す未来は、22世紀を待たずに来るのでしょうか。