『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』 (C)吾峠呼世晴/集英社・アニプレックス・ufotable

【画像】救いようのない鬼が登場する原作コミックス

炭治郎が見捨てた本当に「邪悪」な鬼

『鬼滅の刃』(著:吾峠 呼世晴)においては、鬼の悲しい過去が明らかにされることが少なくありません。いかにして人は鬼に転じてしまうのか。これもまた『鬼滅』の物語の重要なカギとなっています。鬼に転じたあとの行為は決して許されるものではありませんが、主人公・炭治郎が死闘の果て最期を迎えた鬼に祈りを捧げる姿は多くの読者の心を打ちました。

 ところが物語が進むにつれ、炭治郎すらも見捨てた「邪悪」な鬼が現れるようになりました。本稿ではそんな『鬼滅』に登場する「救いようのない悪」をご紹介。そこから『鬼滅』の世界における正義とは何か改めて確認していきます。

※この記事では、まだアニメ化されていないシーンの記載があります。原作マンガを未読の方はご注意ください。

沼鬼

 鬼殺隊入隊直後、初めて出会った鬼である「沼鬼」はのっけから救いようのない「悪」でした。16歳の少女を喰らい続けた挙句、「女共はな!! あれ以上生きていると醜く不味くなるんだよ!! だから喰ってやったんだ!! 俺たちに感謝しろ」と文字にするのも嫌悪すら覚える言葉を吐く始末。これを聞いた炭治郎の顔は、原作では陰に両目だけが浮かぶ、実に恐ろしいものでした。むしろこの後、他の鬼たちに対し憐れみの気持ちを持つことができた炭治郎の優しさに驚かされます。

下弦の壱・魘夢

「無限列車編」に登場した下弦の壱・魘夢に情状酌量の余地を与えることは難しいでしょう。初登場時、鬼舞辻無惨より下弦の鬼たちが殺されていった際も「人の不幸や苦しみを見るのが大好き」なため、本人はとろんと夢見心地。悪行と快楽が結びついた「鬼」であります。こうした嗜好が生まれついてのものなのかは明かされていませんが「過去」が描かれない点で、純度の高い悪であることが間接的にうかがい知れます。なお魘夢はその最期を炭治郎どころか、誰にも気付かれることなく迎えることになりました。

上弦の弐・童磨

 最もサイコパス的人格を持ち合わせているのは童磨といえるかもしれません。彼の特筆すべき点は、過去を明かされてもなお一切の読者の同情を喚起し得ない点にあります。新興宗教の教祖夫婦の息子として生を受けた彼ですが、悲しみといった人間らしい感情を持ち合わせず、他者に対する共感能力が最初から欠如していました。善悪ではなく快か不快か。これが彼の行動原理です。それゆえ他者はあくまでも自分の快楽の道具にすぎず「鬼」となり人間を喰う必要性が出てくればいよいよ文字どおり鬼畜の所業をためらいなく開始します。

 伊之助の母親や胡蝶しのぶに対する言動は、読者に怒りではなく冷たい絶望を与えました。結末としては、彼は人間になる前も、鬼になった後も、感じる心を持たぬままこの世界から消滅することになります。そこに炭治郎がいたら、彼のために祈ったでしょうか。人一倍、他人の心の痛みに対する想像力を持った炭治郎ですが童磨にはその痛みを感じる心が存在しないのです。もしかしたらその点においてのみ、わずかながら憐憫の情をおぼえるかもしれません。

『鬼滅の刃』の世界において「鬼」すなわち「悪」ではありません。善悪は属性ではなく動機と行為によって判断すべきというのが彼らの道徳律です。だからこそ禰豆子に「鬼」という属性が与えられているとも考えられます。この善悪の判断基準は物語の最終局面、鬼舞辻無惨に対する「お前は存在してはいけない生き物だ」という炭治郎のセリフによって確固たるものになるのです。

※禰豆子の「禰」は「ネ」+「爾」が正しい表記