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【背番号物語】阪神「#23」“猛虎フィーバー”が去り……現役時代の背番号が異例の永久欠番となった日本一監督

週刊ベースボールONLINE

実質的に永久欠番だったナンバー



現役時代に着けていた「23」が永久欠番となった阪神・吉田

 阪神が26年ぶりのリーグ優勝、2リーグ制で初の日本一に輝いた1985年。“猛虎フィーバー”はプロ野球の世界だけにとどまらず、まるで列島がタテジマに塗りつぶされたような勢いだった。このときの監督が吉田義男だった。現役時代から阪神ひと筋、“今牛若丸”と呼ばれた遊撃守備の名手。監督としては2期目、その就任1年目のことだ。口グセは「土台づくり」だったが、熱狂的なファンの存在も強い追い風となり、10月16日にリーグ優勝。日本シリーズでは現役時代、同時期にライバルの巨人で名遊撃手として鳴らした広岡達朗監督の率いる黄金時代の西武と対決して、4勝2敗で撃破した。

 だが、この勢いは徐々に失速していく。翌86年は3位、その翌87年には最下位。日本一監督は、わずか3年で退任となった。その10月13日に、「10」「11」に続いて阪神3番目の永久欠番になったのが「23」だ。これは吉田が現役時代に一貫して背負っていたナンバー。65年にライバルの巨人で川上哲治監督が現役時代に着けていた「16」が永久欠番になったが、川上は引退してからも指導者として「16」のままで、それを「77」に変更するのを機に永久欠番となったことは巨人の「16」を紹介した際に詳しく述べた。吉田は69年までプレーしているが、引退から18年も経って選手としての背番号が永久欠番になるのは異例だった。

 ただ、吉田が引退してから「23」は欠番が続き、限りなく永久欠番に近い状態だったのは事実。吉田は指導者として「23」を復活させることはせず、監督1期目はメジャーへのあこがれから「1」を着け、この2期目は「81」で、のちに97年から98年までも監督を務めたが、このときも「83」だった。

 吉田は立命大を中退して53年に入団、1年目から正遊撃手に。同期で圧倒的な強肩を誇った三塁手の三宅秀史(伸和)も入団して、いきなりリーグ最多のチーム193併殺を記録している。吉田を要とした阪神の“鉄壁の内野陣”は、今なお史上最高と評価する声は多い。ただ、吉田は守備だけの選手ではなかった。打っては1年目から2年連続リーグ最多犠打。その2年目の54年には自己最多の51盗塁で盗塁王に輝き、翌55年にはリーグ最多の147安打、その翌56年には50盗塁で2度目の盗塁王に。国鉄(現在のヤクルト)、巨人で通算400勝を挙げた金田正一に強く、長身の金田と小柄な吉田の対決は、弁慶と牛若丸の対決にもたとえられた。59年からも2年連続リーグ最多犠打。この59年が唯一の全試合出場だったが、1年目から16年目の68年まで、すべて出場100試合を超えている。初めて100試合に届かなかった69年がラストイヤーとなった。

 その後、継承する選手がいなかった阪神の「23」だが、プロ野球が始まった36年も、選手が着けたのは「21」までだったことで、欠番だったナンバーだ。

最初が最短、最後が最長


 まだ春と秋の2シーズン制だった37年に捕手の原一朗が初代の「23」となったが、原は春季が閉幕する前に移籍。もちろん、これが「23」の系譜で最短だ。その後も入れ替わりが激しく、39年から外野手の富松信彦が2年、41年から投手の渡辺誠太郎が3年。ちなみに、渡辺は戦後も阪神で復帰して一塁手としても活躍しているが、このときは「17」だった。

 背番号の廃止と戦争による中断を挟んで、戦後は巨人で活躍していた外野手の呉昌征が「23」に。1リーグ時代の終焉まで背負って、“ダイナマイト打線”を引っ張った。だが、呉も2リーグ分立で毎日(現在のロッテ)へ移籍して、50年はイタズラ好きとしても名を轟かす(?)外野手の中田金一が継承するも、1年で引退。翌51年からは外野手の丸岡武が着けるも、その翌52年オフに引退している。そして迎えた53年。一転、阪神の「23」は栄光の背番号への道を歩み始める。

「23」の系譜にはサウスポーが多く、富松、呉、丸岡が左の外野手。“人間機関車”呉は盗塁王の経験者だが、巨人に在籍していた44年のことで、一番打者が多かった点は吉田との共通項ではあるが、在籍した期間を考慮すれば吉田の存在は別次元。もちろん、最初で最後の遊撃手だった吉田の16年は「23」の最長だ。

【阪神】主な背番号23の選手
富松信彦(1939~40)
渡辺誠太郎(1941~43)
呉昌征(1946~49)
中田金一(1950)
吉田義男(1953~69)

文=犬企画マンホール 写真=BBM

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