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【背番号物語】広島「#3」広島で2番目の永久欠番。“鉄人”との邂逅が初優勝を呼び込んだ?

週刊ベースボールONLINE

“鉄人”一色の87年に



背番号「3」で世界の頂点に立った広島・衣笠

 広島の「3」がチーム2番目の永久欠番になったのは1987年9月21日。対象の選手が第一線でプレーを続けている時点での制定は異例のことだったが、これに対する異論は少なかったのではないか。そもそも第一線どころか、ペナントレースが終わるまで1試合も休んでいない。この87年オフに通算2215試合連続出場として現役を引退した衣笠祥雄が着けていたのが、この広島の「3」だった。

 セ・リーグは王貞治監督の率いる巨人が10月9日に優勝を決め、これが王監督にとって初めての優勝だったが、シーズンの主役は衣笠だった印象がある。6月13日の中日戦(広島市民)で世界で初めて永久欠番となった「4」のルー・ゲーリッグ(ヤンキース)を抜いて、2131試合連続出場の世界新記録。22日には国民栄誉賞を贈られる。通算756本塁打で世界新記録を樹立した王が77年に受賞したのに続くプロ野球2人目の快挙。シーズン限りの引退を決めていた衣笠の「3」が永久欠番になるのは自然の流れでもあった。杓子定規にいえば、グラウンドで常に永久欠番が躍動しているのは奇妙なことなのだが、試合を休まなかった衣笠の偉大さと、その「3」を目に焼きつけたいというファンの思いが、そんな些末なことを圧倒していたように思う。

「3」としても、巨人の長嶋茂雄に続いてプロ野球で2番目。衣笠は86年いっぱいで引退して「8」を広島の永久欠番にした山本浩二(浩司)と“YK砲”と呼ばれたが、その原型というべき存在が王と長嶋の“ON砲”であり、国民栄誉賞と永久欠番で“ON”それぞれの栄光を継承したのが衣笠だった。ちなみに、王の「1」が永久欠番になるのは、監督を退任してからの89年だ。ただ、巨人の「3」が長嶋の前から看板選手の背番号だったのに比べれば、衣笠の前にさかのぼると、広島の「3」は地味に見える。しかも、それほど長続きしない入れ替わりの激しいナンバーだった。

 広島1年目の50年に着けた初代の辻井弘は初代の主将でもあり、戦後の46年にパシフィック(のち松竹。大洋、現在のDeNAと合併)でキャリアをスタートさせた一塁手で、2リーグ分立を機に移籍してきて、主に四番打者を務めた。翌51年には打順は四番のままマスクをかぶってチームを支えたが、オフに国鉄(現在のヤクルト)へ移籍。続く52年には大沢啓二(昌芳。南海ほか)の兄としても知られる大沢薫史(伸夫)が大洋から加入して「3」で四番打者を担うも、3年で引退した。

 続く3代目が米マイナー、兵役を経て55年に入団した“フィーバー”平山智。ハワイ出身の日系人で、俊足強肩、ハッスルプレーが持ち味の外野手だったが、衣笠の13年に続く10年を「3」で過ごした異例の存在でもある。65年に4代目となった寺岡孝は外野のバックアップを担ったが、69年オフには南海へ移籍、阪急(現在のオリックス)の「8」として初優勝に貢献した早瀬方禧が後継者となるも、やはり3年で引退。衣笠と6歳の差で誕生日が同じマクガイアが「3」で堅守の二塁手としてレギュラーを務めたが、2年で退団した。これで「3」を背負ったのがプロ11年目の衣笠だ。

“鉄人”と「3」の関係



広島に入団した65年から74年までは背番号「28」だった衣笠

 巨人の「3」には43年の1年だけ空席がある一方、入れ替わりの激しい広島の「3」ではあったが、初代から衣笠に至るまで欠番の時期がない“連続出場”の系譜でもある。衣笠の異名“鉄人”はプロ野球に詳しくない人でも知るようになったが、これは「3」で連続試合出場の世界新記録を樹立したからではない。衣笠の連続試合出場が始まったのは70年のことで、当時の背番号は「28」。20世紀、それも昭和の昔に少年だった人なら誰でも知っている漫画『鉄人28号』が由来とされ、「28」が“鉄人”を築き、“鉄人”が「3」を永久欠番に昇華させたと言えそうだ。

 65年に捕手として入団した衣笠は、68年に一塁手としてレギュラーに定着。広島の「8」でも触れたが、衣笠が「3」となった75年は“赤ヘル”元年であり、広島が初のリーグ優勝を果たして“赤ヘル旋風”を巻き起こしたシーズンでもある。

【広島】背番号3の選手
辻井弘(1950~51)
大沢伸夫(1952~54)
平山智(1955~64)
寺岡孝(1965~69)
早瀬方禧(1970~72)
マクガイア(1973~74)
衣笠祥雄(1975~87)

文=犬企画マンホール 写真=BBM

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