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解雇から2年後の日本復帰で、まさかの本塁打王に輝いた“セギ様”とは/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

週刊ベースボールONLINE

左右両打席から本塁打連発



オリックス、日本ハムなどで活躍したセギノール

「ベッカム? なんぼのもんや。うちの藤本(藤本敦士)や井川(井川慶)の方がいい顔している」

 無謀にもそう吠えたのは阪神タイガースの星野仙一監督である。日韓W杯が行われた2002年(平成14年)前後は世界中のサッカー選手が日本を訪れたが、プロ野球界の助っ人ニュースも豊富だった。02年から一軍外国人枠が投手・野手を合わせて計4人までに拡大されたのである。ダイエーのモーガン・バークハートが史上4人目の8打席連続三振、広島ベンチではルイス・ロペスが自身の中前打で二塁から生還しなかった前田智徳と殴り合い寸前のトラブルを起こし、キューバの英雄・リナレスがプロ解禁第1号選手として中日へ入団するも、全盛期を過ぎておりわずか1本塁打に終わった。

 なお、5月14日には台湾でダイエー対オリックスのNPB公式戦初開催。始球式にピンク色のユニフォーム姿で打席に立つのは、『Yeah! めっちゃホリディ』のシングルCD発売を控えていた当時15歳のスーパーアイドル松浦亜弥だった。“あやや”の国歌独唱、王貞治監督の凱旋帰国はもちろん、松中信彦のサヨナラ場外弾も飛び出し興行的に大いに盛り上がったが、さすがにシーズン中に海外を含む長距離移動は選手への負担が大きく、ダイエーは帰国後に急失速してV戦線から大きく後退してしまう。


来日1年目、オリックスで23本塁打を放ったが打率.203と安定感を欠き1年で解雇

 そんな02年ペナントレースで、史上初の2試合連続の左右両打席ホームランを記録したのが、オリックスの新助っ人フェルナンド・セギノールである。93年にヤンキース入団後、移籍先のエクスポズでメジャー通算17本塁打を記録。身長194cmで両打ちという日本球界では珍しいタイプで、7月26日にはシーズン3度目の左右打席本塁打を放つなど印象的な活躍を見せたが、この年のオリックスは石毛宏典新監督が指揮を執るも50勝87敗3分けで球団39年ぶりの最下位転落。シーズン終了後、オーナーが監督交代を促すも球団社長がそれを拒否するなどチームは完全に迷走期に入った感があり、打率.204、23本塁打と安定感を欠いたセギノールもわずか1年で解雇されてしまう。

オリックス時代とは別人の打撃で


 だが、このパナマ出身のスイッチヒッターはまだ28歳の若さだった。03年はヤンキース傘下の3Aコロンバスで106試合、打率.341、28本塁打、87打点の好成績。首位打者と打点王を獲得したが実はオリックス退団後、すぐパナマへ戻り、オフは徹底的なウエート・トレーニングに取り組み肉体改造に成功していた。無駄な脂肪を削ぎ落とし、筋肉をつけると打球の飛距離が伸び、落ち着いて自信を持って打席に入ることができた。その進化した打撃と日本でのプレー経験に目をつけたのが、04年から札幌移転が決まっていたトレイ・ヒルマン監督率いる日本ハムである。

 そして、日本再上陸を果たした29歳のセギノールは、オリックス時代とは別人のように打ちまくる。開幕から打率.457、9本塁打、24打点という凄まじい数字で3・4月度月間MVPを受賞。5月16日時点でも打率.424、17本塁打、40打点とリーグ三冠王をひた走った。札幌ドーム開場以来の「プロ野球100号」も放ち、記念プレートが設置されるなど、背番号5の“セギ様”と呼ばれ北の大地の人気者に(当時は『冬のソナタ』の“ヨン様”が流行っていた)。『週刊ベースボール』04年5月31日号では緊急独占インタビューが掲載されているが、いったいなぜ突然打てるようになったのか、どうして3Aで二冠を獲得しながら日本に再び来ることになったのかを聞かれ、セギ様はクールにこう答えている。

「テクニックについては、ちょっと企業秘密で、お話しできませんが、やはり一番大きいのはメンタルでしょう。とにかく今は、バッターボックスに入ったとき、集中できています。もう、すぐ後ろにキャッチャーがいることさえ忘れてしまうぐらいに。スタンドやフィールドも意識の中にありませんし、ただピッチャーとボールだけに意識を集中できています」

「実際契約が成立するまでは少し時間がかかってしまいましたが、気持ちのほうは早くに固まっていました。ヤンキースが私を本当に必要としているのか、どの程度必要としてくれているのか、と考えたとき、実際、それほどとは思えませんでしたからね。ならば自分を必要としてくれるチームでやろうと。ファイターズからのオファーは、本当にグッドタイミングでした」

 神戸、アメリカ、北海道と毎年大きくプレー環境が変わることについても、「パナマからアメリカへ。そして日本へと、いつも新しい環境でやってきたので、それほどホームシックになることもありません」と意に介さない。とにかく大事なのは、打席で集中してボールを強くたたくこと。そして、ファイターズの印象を聞かれると、ひとりのバットマンの名前を挙げた。

「2年前は、小笠原(道大)という、いいバッターがいるな、という印象だけがあったんですが、実際入って近くで見てみると、彼は本当にすごいです。毎年毎年タイトルを取りながら、誰よりも努力する。彼の練習に取り組む姿勢、背中でチームを引っ張っていくというのか、そういうところは素晴らしいですね」

 最後にオリックス時代、「優勝したらパナマ運河に飛び込む」なんて意味不明な宣言していたことを突っ込まれると、「いやあ、あれはまだ分別のない若いときに言ったことで……(笑)。今は妻も子どももいますので、ちょっとできませんねえ」なんつってわずか2年前のことを遠い目でごまかすセギ様であった。

日本ハムの連覇に貢献も…



要所で活躍して06年、日本ハムの北海道移転後、初めての優勝に貢献

 この後もリスペクトする小笠原、ダイエーの松中や城島健司との激しい打撃タイトル争いを繰り広げるが、6月中旬に球界を震撼させる事件が起きる。オリックスと近鉄の合併構想が表面化するのだ。ここから1リーグ構想を巡り球団側と選手会が激しく対立。もはやペナントレースの行方どころではない状況に陥り、夏にはアテネ五輪に史上初のオールプロの野球日本代表を送り込むも銅メダル、海の向こうのメジャー・リーグではイチローの年間安打記録への挑戦が話題になった。そんな球界再編の激動のシーズンで平成唯一の三冠王に輝いたのが松中信彦だが、最後まで激しく競り合い44本塁打でキングを分け合ったのがセギノールである。

 打率.305、44本塁打、108打点、OPS.1.070という成績で四番を任され、DHでベストナインにも選出された。05年は31発を放ち、ガッツ小笠原、SHINJO(新庄剛志)、稲葉篤紀らとともに北海道のチームの顔に。個性派の役者が揃い、投手陣ではダルビッシュ有が台頭する好循環。06年のセギ様は序盤こそ打撃不振に苦しんだが、9月に打率4割、8本塁打で日本ハム25年ぶりのリーグ優勝に貢献する。日本シリーズでも2発を放ち優秀選手賞に輝く活躍で落合中日を下し、44年ぶりの日本一に輝いた。

 07年も小笠原や新庄が抜けた打線で不動の四番を務め、リーグV2。しかし、持病のヒザ痛が慢性化し、年俸2億6800万円まで高騰したこともあり、この年限りで日本ハムを退団する。その後、08年と09年は楽天、10年はオリックスとそれぞれシーズン途中に加入すると計8シーズンに渡り日本でプレー。引退後は巨人の国際部駐米スカウトを務めた。実はあの問題児フアン・フランシスコを連れてきたのもセギ様……というのは置いといて、NPB通算172本塁打という数字以上に、記憶に残るメモリアルアーチが多い助っ人スラッガーでもある。NPB史上最多となる9度の1試合左右両打席ホームラン、史上初の13球団からの本塁打を放っている(04年限りで消滅した近鉄含む)。

 なお、元ソフトバンクの森福允彦は、セギノールにプロ初被弾をレフトスタンド上段まで軽々と飛ばされ、それ以降助っ人打者に対しては、とにかく丁寧に投げることを意識したという。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM

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