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カープ寮に父と入居。安仁屋宗八が振り返る「沖縄の星」としての歩み

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「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第14回 安仁屋宗八・前編 (第1回から読む>>)

 令和のいま、あえて個性豊かな「昭和プロ野球人」の過去のインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫るシリーズ。14人目は、沖縄出身者として初めてプロ野球選手となり、通算119勝、防御率タイトルも獲得するなど球界に大きな足跡を残した安仁屋宗八(あにや そうはち)さんを取り上げる。

 近年では広島東洋カープの”レジェンド”として、その独特な風貌とともにファンに親しまれている安仁屋さんだが、初モノづくしのプロ入り当時は不安や困難がたくさんあったという。激動の昭和史のなか、沖縄球界のパイオニアはどのようにしてその地位を確立していったのか。


1966年4月、巨人に完投勝ちした安仁屋の美しい投球フォーム(写真=共同通信)

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 安仁屋宗八さんに会いに行ったのは2008年11月。この年、広島市民球場がカープのホームグラウンドとしての役割を終えた。完成は1957年だから、半世紀の歴史に終止符が打たれたことになる。必然的に、市民球場の思い出をカープOBの方にうかがいたい、と考えたとき、思い当たったのが安仁屋さんだった。

 沖縄出身初のプロ野球選手として知られる安仁屋さんは、沖縄高(現・沖縄尚学高)、社会人の琉球煙草でエースとして活躍し、64年に広島に入団。1年目から一軍で結果を残して[沖縄の星]と呼ばれ、長く投手陣を支えたが、74年オフに阪神に移籍。皮肉にも翌75年、広島は球団初のリーグ優勝を果たす。

 一方、75年の安仁屋さんは阪神で66試合に登板し、12勝5敗7セーブという好成績を残す。すべてリリーフだったが、当時、1回限定起用はまずなかったから、140回2/3を投げて規定投球回到達。1.91という数字で最優秀防御率のタイトルを獲得し、カムバック賞にも輝いた。

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