top_line

【new】エンタメウィークをアプリで読もう

【背番号物語】阪神「#11」“2代目ミスター・タイガース”の永久欠番は不吉なナンバーだった?

週刊ベースボールONLINE

藤村の引退試合で



村山の背番号「11」は阪神で永久欠番になっている

 縁起が悪いといわれる数字がある。これは背番号の世界にもダイレクトに反映され、「4」「9」「42」「49」など日本語の読みに由来するものだけでなく、キリスト教で不吉な数字だという「13」なども、プロ野球が始まった当時から避けられる傾向があった。時が流れ、プロ野球の歴史を積み重ねていくと、チームごとにジンクスが形成され、「この背番号の選手は成功する」というポジティブなナンバーがある一方で、「この背番号は縁起が悪い」というネガティブなものも出てきてしまう。こうした側面も背番号にまつわる物語であり、阪神の「11」も、そんな不吉とされた背番号だった。ただ、これは阪神で2番目の永久欠番でもある。不吉なものから栄光の背番号に昇華させたのは村山実(昌史)だ。

 村山は1936年、つまり昭和11年に、神戸に生まれた。タイガース(阪神)が巨人と初の年度優勝決定戦を戦っていたときだ。村山は住友工高2年で念願の投手となったが、甲子園には届かず。立大のセレクションを受けようと関係者に挨拶すると、「推薦できない。背が低すぎるんや」と言われ、結局、兄が通っていた関大へ。悲壮感すら漂う渾身の投球は、ヘルシンキ五輪のマラソン金メダリストから“ザトペック投法”と言われるようになる。59年に阪神へ入団。プロ第1球を投じたのは3月2日、甲子園での巨人とのオープン戦で、「10」が永久欠番となった藤村富美男の引退試合だった。

 村山の背番号は「11」。尊敬する藤村の「10」に1をプラスした、というのが通説だが、すでに10番台の背番号は投手のナンバーという印象になっており、期待の村山が「11」を背負うのは当然のことでもあった。だが、これに猛反対したのが関大、阪神、さらに「11」の先輩でもある御園生崇男だ。「11」を着けた歴代の選手はさまざまな悲運に見舞われ、ことごとく短命に終わっていたからだ。

【阪神】主な背番号11の選手
藤井勇(1936~38、42)
野崎泰一(1946~49)
御園生崇男(1950)
三船正俊(1952~54)
村山実(1959~72、88~89)

 初代の藤井勇については藤村の「10」を紹介した際にも触れたが、藤井はダウンスイングの元祖ともされる外野手で、プロ野球で第1号の本塁打を放つなど、阪神の「11」は幸先のいいスタートを切る。だが、藤井は2度も兵役にとられ、戦後は阪神ではなくパシフィック(のち松竹。大洋、現在のDeNAと合併)でプロ野球に復帰。戦後は一時、投手から内野手に転向した玉置(安居)玉一が着けたが、右腕の野崎泰一が初めて投手として「11」を背負う。野崎は48年に12勝を挙げたが、翌49年に肩痛もあって、わずか1勝と急失速。「3」に変更した50年に10勝と復活した。その50年に「15」から変更して「11」を着けたのが御園生だ。

悲運を味方に



1950年の1年のみ、阪神で背番号「11」を着けた御園生(写真は47年)

 御園生は阪神の結成に参加したレジェンド。荒くれ者ぞろいのチームで、メガネをかけた知的な風貌で“銀行屋”と呼ばれたが、圧倒的な勝率を誇った右腕だ。この御園生も1年で「15」に戻して引退。52年に継承した三船正俊は開幕戦で初先発初完封の快挙も、徐々に失速して55年に東映へ移籍、わずか4年で現役生活を終える。その55年に左腕で2年目の山中雅博が継承したが勝ち星なく引退。57年には投手から外野手に転向した内司正弘が着けたが、やはりラストイヤーに。村山が入団したときには欠番だった。

 だが、村山は最優秀防御率3度、最多勝2度、沢村賞は3度という活躍で、通算222勝。巨人の「3」長嶋茂雄との対決は、当時きっての名勝負だった。ただ、村山も悲運と無縁だったわけではない。1年目から巨人を無安打に抑えながらも2失策で2失点のノーヒット“アリ”ラン、天覧試合では長嶋にサヨナラ弾を浴び、63年には自信の1球をボールと判定されて“涙の抗議”。そして、常に故障とも闘い続けた。とはいえ、こうした悲運も村山の魅力となっていたのも事実。全身全霊を懸けてダイナミックに投げ込む姿はファンの心も震わせた。

 村山は70年から2年間は兼任監督としても「11」を背負い、選手に専念した72年いっぱいで引退。11月2日に「11」は永久欠番となったが、暗黒時代の88年に監督として「11」を復活させ、89年まで指揮を執っている。

文=犬企画マンホール 写真=BBM

TOPICS

ランキング(スポーツ)

ジャンル