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【背番号物語】中日「#10」通算100勝を超えた本塁打王。中日2番目の永久欠番は“多刀流”の男

週刊ベースボールONLINE

自己分析は「不器用なタイプ」



服部が中日で着けた背番号「10」は永久欠番となっている

 2021年を迎えた現在、中日の歴史における最後の永久欠番は「10」。戦前は投手、戦後は打者の“二刀流”西沢道夫が最後に着けていた「15」の翌年、1960年3月20日に永久欠番に制定されたものだ。中日の永久欠番は、この「15」と「10」のみ。“二刀流”の「15」に対して、「10」も“二刀流”、いや、もちろん腕が2本しかない以上、最多は“二刀流”なのだが、投手と打者というだけにとどまらず、その役割の多彩さは数えきれない“多刀流”といえる男だった。

 服部受弘。自身は「本来は不器用なタイプ」と分析しているが、他者からは謙遜にしか聞こえないだろう。選手の数が少なく、複数ポジションをこなす選手も多かった時代ではあるが、その存在感は他を圧倒している。マルチプレーヤーの元祖といえる鉄人だ。また、複数の背番号を着けた西沢とは異なり、一貫して「10」を背負い続けている。

【中日】背番号10の選手
岩田次男(1936)
鈴木秀雄(1937~38)
服部受弘(1939~41、46~58、77)

 結成に参加した初代の岩田次男は初代の正三塁手で、2年目から「5」に。西沢の前に「5」を着けた男でもある。2代目の鈴木秀雄はスイッチヒッターで外野手だったが、内野も守り、3チーム目で43年に消滅した大和では正捕手を務めたマルチプレーヤーだった。

 服部は39年に名古屋(中日)へ入団。愛知県の出身で、旧制の岡崎中へ入る前から名古屋に声を掛けられ、授業料も援助してもらっていたという。岡崎中では1年から4年までが捕手で、5年になってから投手となった。プロのキャリアは捕手としてスタート。ただ、当時の名古屋には名手の三浦敏一がいて、「よく酒を飲みに連れていってくれたが、アドバイスはゼロ。ただ、ノートをつけているのを見て、自分もやってみようと。最後まで捕手としては三浦さんのほうが上。僕は打つほうで認められたんだと思います」(服部)という。ちなみに、37年に入団して、のちのエースナンバー「20」を着けた三浦は、翌38年から「9」に。服部に与えられたのは三浦に続く「10」だった。

 用具が粗悪で打球が飛ばない“投高打低”の時代。それでも代打に立った服部は、「ぶよぶよした飛ばない球」(服部)を左翼席に放り込んだ。3年目の41年には8本塁打で単独の本塁打王。怪力で鳴らした“神主打法”の岩本義行(南海。現在のソフトバンク)が7本塁打、巨人の川上哲治は4本塁打で、中日はチーム全体でも13本塁打だったから、その腕っぷしの強さが分かる。だが、そのオフに応召。「10」は空席となった。

スライダーでも元祖?


 兵役で皇居の桜田門から半蔵門(!)にかけての警備を担当した服部。戦後、「そのままいると皇居を警備する警官にさせられる」という噂が流れ、あわてて逃げ出したという。その後は夫人の実家がある大阪へ移り、阪急(現在のオリックス)から2カ月ほど給料をもらって練習していたが、戦時中から私財を投じてチームを支えてきた代表の赤嶺昌志に連れ戻され、中部日本として復活したチームに復帰、ふたたび「10」を背負う。

 46年にプロ野球が再開されると、竹内愛一監督は強肩の服部を投手に転向させようと考えていた。そんな6月、服部は捕邪飛をスタンドに入ると思って追わなかったことで「もうキャッチャーはせんでいい」と一喝。服部の姿がマウンドにあったのは、その10日後のことだった。そして初登板初勝利、そのままシーズン14勝。捕手のときから変わらないコンパクトなフォームがクイックのような効果を呼び、打者のタイミングを外した。最初はストレートとタテのカーブのみで、のちに球速のあるヨコのカーブを習得。つまりスライダーだ、スライダーの元祖は巨人の藤本英雄とされ、実は服部のほうが早かったことになるが、服部は「どうでもいいこと。必死にやっただけだから」と語る。

 49年には自己最多の24勝。51年は三塁が最多で、翌52年には投手に戻るが、代打で満塁弾を放ってから救援のマウンドに立ち、勝利投手となったこともあった。54年には主将として初優勝、日本一に貢献している。最終的には遊撃を除く8ポジションを守り、通算112勝を残した服部。77年には1年だけ二軍監督として中日のユニフォームを着て、「10」も復活させている。

文=犬企画マンホール 写真=BBM

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